部活の無い午後は桜乃は決まって公園に出掛ける。学校の帰り道にいつも通る小さな児童公園ではなく、郊外のもっと大規模な公園に。サイクリングコースやランニングロードなどが整備されていてちょっとした施設を呈している。桜乃は勿論テニスの為にそこへと出かけていくのだが、その目的設備も備えてあった。ランニングコースから少し外れた、公園の隅にフェンスに囲まれたコートが二面。犬の散歩や自身の為に汗を流し走っている人はしょっちゅう見かけているが、そのコートだけは忘れ去られたように利用者は居なかった。
近くにコートのある公共の公園が無いという訳ではない。都心にしてはかなり大規模で整ったものが桜乃の通う青春学園のすぐ近くに存在する。前述の公園を桜乃が偶然見つけるまでは自分もそこに足繁く通っていたのだから。利便性の為だろうか、そこには青春学園の生徒はおろか、他校の生徒まで集まって来ているのだ。人見知りの激しい桜乃にしてみれば他校の見知らぬ制服に囲まれて(自校の生徒でも知らぬ人が多いと心細くなるのに)テニスの練習を一人でするというのはかなり難儀なことであった。『自分は上手い』という自負があれば別なのかもしれない。だが間違っても桜乃の今の腕では励ましの言葉は貰えても賞賛の言葉は貰えないだろう。上手い人が沢山来ている中で自分一人ド下手初心者と言うのは心細い。そんな中で目付きの悪い人に絡まれでもしたらもう、桜乃は生きた心地がしなかった。しかし練習しなければ上手くはならない。そんなこんなで此処を見つけた時には飛び上がりそうなほどの喜びを感じたのだった。

ここに通うようになって三ヶ月が経っていた。夏の盛りに見つけたそこにも、秋の景色が濃く映る。もう、冬も間近だ。長袖のパーカーに七分のズボンでは少し、頼りない。
公園まで走ってきたのだ。準備運動としては、あとストレッチでもすれば十分だろう。桜乃は見えたフェンスのドアに手を掛けた。と同時に耳慣れない音が届く。それは間違いなくラケットがボールを打つときに奏でるもので、桜乃の音より数段高くて綺麗な音だった。だが、ここの通った三ヶ月、一度も自分以外が立てた音ではない。足が縫い付けられたように桜乃は佇んでいた。緑の格子から見える、少年の姿を見ていた。

オレンジの頭に白い学ラン。その色では汚れが目立つだろう。しかし少年は気にしている風に見えなかった。少しでも気にしているのならば着替えるなりするだろう。折り上げてすらはいない裾は、うっすらとした汚れが見えた。何より目を引いたのはその汗だ。尋常でない量を次から次へと流している。まるで夏場の炎天下で運動しているように見えた。でも間違いなく今日は秋で、太陽は光り輝いているとはいえ、露出した肌に触れる寒さまでカバーしきれる訳ではない。。どうしたらあそこまでの運動量を作り出せるのだろうか。
ぼんやりと考えていた桜乃の足元を目指したボールが、跳ねながら辿り着いた事を彼女は気付かない。

「・・・あれ」
呟くように口に出し、少年は桜乃を認めた。
「久しぶりだねぇ」
「え、あ、久しぶりです」

少年の言葉に桜乃はどもりながらも返す。オウム返しとはこのことなのかな、とぼんやり思った。少年は桜乃を指差していた。それに桜乃が気付き、慌てて問うと、少年は口元を手で抑えながら視線をそらした。

「違う違う。さっきからフェンス握り締めたままだからさ。テニスやってるんでしょ?・・・入ってこないの?」

赤面しながら桜乃は手を離した。扉を開けてくれる少年に従い、桜乃は一歩だけコート内に足を踏み入れる。たった一人のコートに慣れてしまった為だろうか。今のコートは、自分が知らない場所のようで、足元が覚束なく震えた。
少年はそんな桜乃に一別もくれることなく、自分のペースですたすたと歩む。黒い大きなテニスバックの中からボトルを取り出し、口に含んだ。あっという間に飲み干すと、二本目を取り出す。一体何本持っているんだろうか。見守っている桜乃に少年は視線を向けた。何の気なしに向けられたはずの視線が、桜乃は怖くて身体がすくんだ。それが伝わったのか、少年は桜乃に笑いかける。小さな動物に向けられるような。警戒心が段々薄れていくのが分った。それをまた、見守っていた少年がベンチの隣りを叩いた。座れ、と言っているのだろうか。
桜乃はその通りに腰を下ろす。気まずくて、何となく正面のまだ高い太陽を見つめていた。

「ここ、前から来てたの?」

突然掛けられた声に桜乃は驚いた。少し視線を泳がせて、言葉を捜す。
「前に、偶然見つけて。誰もいなかったから・・・」
「ふーん。俺週三くらいで来てたんだけど」
「あ、あの、私週二くらいでしか来てなかったから」
「そんなびくびくしなくてもいいってば」

図星を当てられた桜乃は慌てた。心臓が必要以上に早打ちする。
目の前が暗くなっていくような気がした。太陽はまだ、さんさんと光を降り注がせているのに。
桜乃の錯乱を感じ取ったのか、少年は再び困ったように笑った。宥めるように声を出す。

「そんな取って喰われる訳じゃないんだからさ、もっとリラックスしてよ。緊張してたとこでしょうがないでしょ。俺、君の名前もわかんないんだし」
「え、あ、はい、・・・すみません」
少年は笑った。「休憩、終わりね」
立ち上がると、少年の身体で出来た影が桜乃に被った。そして彼が桜乃の前に手を伸ばす。掌を返したそれは桜乃を促す様。どうすれば良いのか、手を取ったほうが良いのか、分からなくて桜乃は困ったように差し出された掌と少年の笑顔を見比べた。

「エスコート致します。お嬢さん?」

その意味を察した桜乃は噴き出す。手を取った。促されるまま、桜乃は立ち上がった。傾きかけた太陽が照らすコートの中に歩み出した。何となく楽しくて、桜乃は笑う。名前も知らぬ少年の、目の前の笑顔につられたんだ、と心の中で理由をつけて。



手を繋ぐ(2003秋)
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