麗らかなまでの午後の陽気。容赦なく降り注ぐその暖かさは、桜乃の瞼を重く閉じさせるのに十分だった。
机に座る桜乃の前には、数学のプリントが2枚。いつもより少し多い宿題を前に、初めのうちはやるぞという気概たっぷりに進めていた。しかしそのやる気は、時が経つにつれ徐々に増えて来る難問の前に、何時まででも残っているわけではない。加えてこの春も間近のこの陽気だ。桜乃は眠気に襲われてぼんやりとしている頭を振りながら、後数問を残すのみとなったプリントに取り組んでいた。
そんな時に突然、電話が鳴る音が響いた。
耳に響く、甲高い電話の電子音に呼ばれた桜乃は部屋を出た。途中、滑りそうになりながらも無事に電話口に辿り着く。鳴り続けていた電話から受話器を取ると、小さな余韻を残して電話は静かになった。耳の奥に残る微かな音をそのままに、桜乃は電話越しの相手に名乗る。
「はい、もしもし。竜崎です」
「あ、もしもし、桜乃?」
桜乃が出たことに安堵したのだろうか、そんな声が耳に届く。機械越しで少し曇ってはいたが、その声は桜乃の良く知る相手のものだった。桜乃もまた安堵し、笑顔を浮かべた。
「朋ちゃん? どうしたの?」
「ねぇ、数学のプリント終わった? 未だだったらさ、一緒にやらない?」
最後の方が分からないんだ、という朋香の申し出に、桜乃はすぐに了解の意を伝える。
「いつも桜乃の家にお邪魔させてもらってるから、今日はうちに来て」
「弟さんとかに迷惑じゃない?」
「弟'sとお母さん達で今日は出掛けてるんだ。だからあたし家に一人なの」
「うん、分かった。じゃあ、30分くらいで行くね」
受話器を置くと、桜乃は二階に上がる。数学のプリントと、他にもある宿題やら教科書やらを鞄に詰め、少し身支度をすると、再び降りて母親に出掛けると告げた。その足で玄関へ向かおうとすると、母親は桜乃に少し待つよう言い置き、キッチンへと向かう。数分後に母親は桜乃の元へと戻ってきた。手に知らぬ包みを下げて。
「アップルパイ焼いたから、良かったら朋香ちゃんと食べて」楽しそうに笑う母親に釣られて桜乃も笑う。「適当な袋は無かったから、悪いけど桜乃のその鞄にでも入れて持っていって。紐でもあれば寿司折みたいにして取っ手作れたんだけどね」
「崩れちゃうから、手で抱えて持っていくよ」
「大変じゃない?」
心配する母親から、パイの入った箱を受け取ると桜乃は大丈夫、と微笑んだ。
「近いし、荷物も軽いから」



「・・・ショルダーバックとかにすればよかったかな」
一人桜乃は呟いた。荷物自体は大して多くない。教科書数冊とノート数冊にプリント数枚。それと手に抱えたパイ。それが桜乃の荷物の全てだ。ただ、パイ以外のほかの荷物を入れた鞄が問題だった。手提げの鞄に入れてしまったため、パイを持った腕の真中辺りで、腕に下がった鞄が歩行の邪魔をするのだ。
パイの箱を片手で持つほど桜乃の掌は大きくない。無理して持つと、折角母親が持たせてくれたその包みを落としてしまいそうで、それはしたくなかった。
まぁ、でももうちょっとだし。
桜乃は十字路で立ち止まって、腕に喰い込んだ鞄の位置をずらす。そうして徐々に近づいてくる朋香の家との距離に励まされて再び歩きだした。その瞬間だった。
「持とうか?」
頭上から声が落とされた。唐突に掛けられた声に驚き、左右を見渡すが誰も無かった。そんな事をしている桜乃を嘲笑するかのように再び声は落とされた。
「後ろ」
その声に従って勢い良く後ろを振り返った。しかし、完全に振り返らずに、桜乃の横顔はそこにあった何かにぶつかる。ぶつかった痛みは無かったが、振り返るのを阻まれて何かを確認できなかった事で桜乃は混乱していた。咄嗟に口走った内容すら、把握しきれなかったほどに。
「勢い良すぎだよ」
未だ混乱している桜乃を知ってか知らずか、後ろの人物は桜乃の手にあったパイの包みを取り上げた。彼女の頭上を介して行われたそれは、太陽と相まって一瞬彼女の顔に影を落とす。それを目で見送った。首を太陽の方に曲げてゆくと、その視界の終点に、とても明るい色がちらりと横切ったような気がした。
桜乃は少しその場から離れ、そしてそのまま振り返る。思った通りの、眩しいばかりの髪の色がそこにあった。と、同時に飛び込んできたのは自分を見返す瞳。不思議そうに歪められた唇が、何処か可笑しく感じた。
偶然に何度も出会った相手。しかし名前はお互い知らない。もしかしたら自分は名乗ってしまったかも知れなかったが、そんなことは記憶には無かった。朋香にも話したが、不思議そうにしていた。偶然ではあるが、何度も会った相手の名前も知らないなんて。しかし、その事で一番不思議なのは自分自身だった。名前も知らないこの少年に、一方的な親近感を抱いているなんて。この事を今日も目の前にいる彼が知ったらどうなるのだろうか。気持ち悪がられるかもしれない。それはとても苦しい事だ、と桜乃は思った。
「・・・こんにちは」
迷った挙句、無難な挨拶を口にした。少年はニコニコとしながら頭上に掲げていたパイの箱を腰の位置まで下ろす。桜乃がそれを心配そうに見守っていると、それに気付いたのだろうか、少年は桜乃に笑みを投げると、しっかりと両手で抱え直した。
「甘い匂いがするね」
「お母さんが、焼いてくれたパイなんです」
「ふーん。料理上手なお母さんなんだ。良いね」
言うと少年は歩き出した。それが桜乃にはあまりに唐突に感じられた。思わず意味の無い言葉を上げた桜乃に、少年は前に出した足を止めて振り返った。
「何処かに行く途中だったんでしょ? 俺、暇だから運ぶの手伝ってあげる」
少年は歩き出した。桜乃を待たずに、十字路を横切り直進しようとする。桜乃は慌てて声をかけた。
「そこは左です」
少年は振り返った。見上げる桜乃の視線と触れた。数秒の沈黙に耐えられずに桜乃は曖昧な笑みを浮かべた。すると少年もそれに乗じて失態を誤魔化そうと、曖昧な笑いと声を出した。
「・・・早く言ってよ」
バツの悪そうに言うその声が面白くて、可笑しくて、何だかとても頭に響いて、桜乃は噴出すように笑った。そんな桜乃に彼から恨みがましそうな、それでいて何か別の温度が感じられるような視線が送られる。それを桜乃は上目遣いに見上げて返す。
「いつかの、お返しです」
呟いた言葉を、彼は聞き取れなかったようだ。何?と問う少年に、何でも無い、と桜乃は手を振った。




inserted by FC2 system