「・・・・・・・・・・・・不毛。」
「羽毛?」
「違う。不毛。」
千石はフェンスに体重を掛けた。緑のネットが空に向かって、千石の背中の形に歪む。それを横目で、南は見上げていた。ストローを突き刺した紙パックの中身はとっくに冷気を失っている。生温いせいで余計に甘さが舌に纏わりつくジュースを一口だけ口に含んだ。無理に飲み下すと、南は呟く。
「やっぱりオレンジジュースはきんきんに冷えたのをグイっとあおるのが一番だな」
「オヤジくさいよ南。っていうか俺の話どうでもいいとか少し思ってない?」
「うん。かなり」
千石は溜息を吐いた。「最近変わったねってよく人に言われるでしょ」
そんなことはない、と南は首を横に振る。それを見遣ると千石はもう一つ溜息を吐いた。
見上げた先には抜けるような青い空がある。スカイ・ブルーとでも呼ぶべき青空は、そこにたまに目に入る真っ白な雲と相まって更にその彩度を増しているようだった。一瞬の内に強く記憶に残るような色。千石はぼんやりとそれを見つめ、そして目を反らした。
「綺麗すぎてむかつくって事はありませんか」
突然といえばあまりにも唐突で、そして物騒なその質問に南は千石を見上げた。目を細めて注視するが、見上げた横顔からは表情は覗えない。輪郭を象る逆光のせいだろう、と南は決め付け、そしてまたストローを通して温いジュースを一口含んだ。
「お前はあるのか? 綺麗過ぎてむかつく事って」
南は、ぼんやりと正面を見つめていった。最近出来たらしい高層マンションが、フェンス越しに見える。一つだけぽつんと抜け出ているそれは、周りの景色と酷く調和が無い。どうにも主張が激しすぎるそれから南は逃げるように目を伏せた。伏せた目に、自分が両手で抱え込んでいた、すでに汗も止んだ紙パックが映った。
「・・・あるよ」
ためらうかのような間を見せた後、やはり千石はそうぽつりと答えた。空の下で呟いた言葉は、発した途端に空へと消える。その響きがなんとも苦しそうに聞こえた。だからかもしれない、言葉が見つからない。何も答えられなかった。なんと答えればいいのか、それを南は知らなかった。
「例えばさ、あの空とか」千石は腕を伸ばした。両腕を精一杯空に向けて、まるで渇望するように、叫ぶように。「空がなんであんなに青いのかっていうとさ、それはただの光の乱反射のせいでしょ。だからさ、どんなに高いビル作っても青い空には届かない。青い空が気持ち良さそうで、その場所に行きたくて高い場所上ってみても、上ったら上っただけどんどん上に空が遠ざかっちゃって決して近づかない。だからってあんまり空に上がりすぎると、今度は宇宙に行っちゃう。空の青さはあれ、いずこ?」
「だから『綺麗過ぎてむかつく』のか、お前は」
「・・・そうだね」
「違うんじゃないか?」
「違う?」
思っても見なかった指摘に、千石は瞠目した。そのまま南の言葉を待つ。南がストローからジュースの残りを吸っている。その音の後に空気を飲み込んだ音が響いた。南にしては大きな音だったが、千石にしてみれば小さな音。それを聞き流していると、南は飲み終わったパックを丁寧に畳む。コンビニの袋の中に締まって、飲み残しが万一垂れて来ないように口を縛った。投げ出した足の間に置くと南は再び、空に向かって聳え立つマンションの上端を見つめた。
「空が綺麗でむかつくんじゃなくて、そんな綺麗に届かない自分がむかつくんだろ」南は足の間に置いたコンビニ袋を弄くる。空気を少し含んだそれは、潰れかけたボールのようだった。「・・・まぁ、別にどっちでもいい事なんだろうけどな。元はと言えばまぁ、空が綺麗なせいなんだし」
「――そうかもね」
自分が綺麗だと思ったものは全て自分の手をすり抜けていく。どうして堪えればいいのかわからずに、千石は唯唸る事しか出来ない。もはや瞼に焼き付いて離れない笑顔が千石を苛む。
空の青さは目と閉じれば消えてしまうのに、どうして消えてくれないのか。泣きたくなるほどに憧れて、それでもあの傍まで辿り着けるという保証は何処にも無いのだと。それだけが自分の知る全てと言っても過言ではない。
「でもさぁ、もしかしたら自分では気付いていないだけかもしれないんだぞ」
南は小さく言った。独り言のようにも思えたそれを、千石はどう扱っていいのか分からずに南を見返す。その千石に視線だけを南は返した。そしてまた、その目は下の袋へと向けられた。ビニールとコンクリートの剥き出しの床が擦れて奏でられる雑音が聞こえる。酷く耳障りな音にも聞こえたが、千石は黙っていた。
「例えばさぁ、お前がスカイダイビングしてたとする。それを俺が地上から見てたらどうする。きっと俺はお前が空の中にいるんだ、って思うかもしれないぞ。何にせよ、見方だな。見方を変えればどうとでも見えるんだよ、多分」
「・・・そんなもんなの」
「だから、千石、お前も悩むより先に行動しといた方がいいんじゃないのか」千石を見上げて、南は少し笑って見せた。「その後だったら愚痴だろーとのろけだろーと聞いてやるから」
「・・・ありがと。やっぱ南ちゃん、好き」
「気色悪い事はやめれ。俺はその言葉は可愛い女の子にしか言われたくない」
「うん。俺も桜乃ちゃんに言いたい」
そう言って千石は笑った。つられるように南も笑う。立ち上がった南が千石の背中を叩いた。その弾みで前に数歩たたらを踏んだ千石は振り返る。ありがとう、と大きく口を動かし手を振った。そして体当たりでもしそうな勢いで屋上を繋ぐドアまで駆け寄った。慌てた様子で扉を開く千石の姿が可笑しくて、南は笑っていた。



空は高く(200404)
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