土曜の映画館前。柱にもたれる桜乃の前を、様々な人間達が横切っていった。そのすぐ近くにある、上映時間報告用の大きなポスターを前にした制服姿の女子生徒たちが、華やかな歓声を上げている。桜乃はそれを聞きながら、携帯の画面をぼんやりと見ていた。届いたメールを何度も呼び起こし、そして眺める。ついでに自分が返信したメールも呼び出す。そして同じように見つめていた。先程から何度繰り返したか分からないその行為。段々とそれにも飽きて、桜乃は軽い音を立てて携帯を閉じた。背面に付くウインドウが無遠慮に輝く。何となく見ていられなくて、腕に下げていた鞄のポケットに無理矢理押し込んだ。
「・・・はぁ、どうしようかな」
そう呟こう、と思った矢先、同じ言葉を呟く人物が居た。太い柱の傍にいた桜乃の右横の面に寄りかかる人物だった。まさか、と思って想像を浮かべるが、まさかこんな場所にまで居るはずもない、と考え直す。横目でちらりと頭を覗ってみた。明るい髪の色を思っていたが、しかしその髪は耳まですっぽりと被ったニットキャップに隠されていて、桜乃には判断が付かなかった。何となくそのまま見ていると肩に触れる掌があった。右肩を叩かれて、桜乃は思わずぎょっとして振り返る。しかしその途中で何か棒のようなものが頬に当たり、振り向くことは出来なかった。
「・・・・今時綺麗に引っかかるねぇ」
感心したような声が聞こえた。急に恥ずかしくなり、桜乃は大きく肩を払う。抑えていた掌が外れた事がわかると、上体を捻り、後ろへと振り向いた。振り向いた先には、やはり桜乃が思っていた通りの人物の、悪戯めいた笑顔があった。酷くあどけなく見えて、桜乃は頬が熱くなったような気がした。
「・・・お久しぶりです」
さっき引っかかったことが恥ずかしいのだろう。何となく普通に挨拶するのが気恥ずかしくて、桜乃はそう言葉を濁した。対する少年はというと、そんな桜乃に動揺もせずに未だ、あの笑顔を顔に貼り付けている。本当に恥ずかしくて、桜乃は俯いた。頬が益々熱くなる。先程感じた頬の火照りも混じって、桜乃は訳が分からなくなった。いっそ逃げてしまいたい、とすら思ったが、何故か足が動いてくれない。桜乃は何も出来ずに唯、立っていた。垂れていた頭に掌が乗った。不思議に思う期待のような気持ち、そして混ざる何かへの不安と。桜乃の中でその両方が混ざって、そしてその事が桜乃に耐え難いプレッシャーを与える。訳が分からなくて、押し潰されそうなほど桜乃は不安だった。こんなにも自分の感情が自分から離れていった事があっただろうか。思い返してみても、そんな事例は桜乃には見当たらなかった。桜乃は待った。それこそ従順な犬のように。それ以外に桜乃はどうしたらいいのか、術を全く知らなかったのだ。少年の方も、桜乃がこんな態度に出てくるとは思わなかったのだろう。二人の間には周囲の喧騒とは一変して、気まずいものが流れていた。少年が声を上げたのは、あと少し何も無かったら帰ろう、と桜乃が固く決意したその瞬間だった。
「ね!」
「え?」素っ頓狂な声があがった。自分が出したものとは思わずに桜乃は少年を見上げた。少年も驚いたような顔をしているのを見て、漸く自分が出したものだと思い当たり、桜乃は慌てて口を両手で覆い隠した。そして恥ずかしさを堪えて熱を帯びる頬。どうしたら良いか分からず少年を唯、見上げたまま棒のように突っ立っていた。もしかしたら桜乃は棒になりたい、とすら願っていたのかもしれない。
「えいが。映画、見る予定だったんでしょ」
はい、と桜乃は首を縦に何度も振った。それしか出来なかった。声を上げることもままならない。じわり、と何故か染み出る涙を拭い隠すのに必死だった。
「俺もなんだけど、今日一緒する筈の友達が急に骨折したとかで来れなくなったらしいのね。帰ろうともおもったんだけど、折角電車にまで乗って出てきたんだから、何か観てこうと思ってるのね」少年は桜乃が頷くのを見て、満足そうに笑んだ。「見た所君もそんな感じでしょ。だったら振られっ子同士で何か一緒に観ない?」
首を縦に振る桜乃を見て、少年はそれを止めた。涙で霞んだ桜乃の視界に、少年の苦笑めいた笑みが見えた。そのまま促されて、桜乃は少年と共に歩く。上映会場と、上映物と時間が明記してある、館前の大きなポスターの前に立った。先程歓声を上げていた女子生徒たちはもう居ない。恐らく目当ての映画を観に行ってるのだろう。少年は指差した。それを桜乃は促されるまま見遣る。楽しそうに笑う顔を観ている事が、桜乃は何故か楽しくて堪らなかった。



熱を帯びた(2004初夏)
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