汗をかいた細い長い、紙パックについたストローを取り出す。上の穴に指の腹を押し付けて、下へ下へと力を入れると、聞き取れないほどの小さな音が反対側から聞こえた。白いが、しかし透明感の無いビニールを破ってストローの尖った先がパックに寄り添っていた。後ろに描かれている写真のオレンジの切り口が毒々しいほど瑞々しい。それをぼんやりと眺めて、溜息を吐くと何事も無かったかのように切原はストローに手を伸ばす。銀色に覆われた穴に、尖ったところを突き刺すと、僅かな抵抗の後にストローは鈍く体内に沈み込んでいった。口に含むと、僅かな酸味としつこい程の甘味が広がった。ストローは、そのからだがオレンジの色を透かしている。身体に悪そうな色だ、と切原は今更ながらおぼろげに感じた。そして隣りに目を遣った。
「・・・暑くないの」
夏ももう終わったとは言っても、まだ9月。連日の残暑が厳しい最中、今日も例外無く最高30度まで気温は上がっていた。夕方で、もう日も落ちようか、と言う時間だったが、それでも暑いもんは暑い。道行く人々もその暑さにうんざりしているというのを隠せない。その点、隣りに座るこの少女は一体なんだ。この暑さの中にいても極度の緊張をしているのが伝わる。制服のスカートを足に押えつけるように握り締める腕は、力が篭り過ぎていて痙攣しているようにも見えた。表情を覗おう、と上体を起こしてみるが、耳を伝う黒髪のせいか、はっきりと見る事は出来なかった。
ただ、その頬が異様に赤くなっていることを除いて。
「ねー。暑くないの」
さっきよりも大きな声を出してみる。切原はその語尾と共に少女の方を向いた。手すりに肘を立て、掌で頬を支える。同様に少女からのレスポンスがない事を確かめると、もう一度呼びかけた。
「ぅえ!? ・・・わ、私ですか・・・?」
素っ頓狂な声を上げ、そして自分の出した声に驚いたのか少女は慌てふためき立ち上がる。放っておくと何処かに逃げ出してしまいそうだった。「ああ、まってまって、落ち着いて」切原は声を上げた。頬杖をつく手とは反対側のほうの手で少女を手招きする。そういえばこのジェスチャーは、アメリカでは『あっちへ行け』という意味であったか。そういった意味にだけは取られたくないと、熱で暖められた頭でぼんやりと考えていた。
「さっきからずっとちじこまってたけどさ、暑くないの」
少女がベンチに腰を下ろすのを見て、切原は同じ質問を三度繰り返す。少女はその丸い目をニ、三度瞬きさせると何かを思い出すように斜め上を見上げた。
「・・・・・・そんなに私、小さくなってたんですか」
少女の思いがけない問いかけに、切原は固い同意を持って返す。「うん。すごく」
「そうですか」少女は肩を落とした。「・・・どうやら私、人見知りするようなんですよね」
「ふーん。自覚無いの?」
「・・・・・・・・・・・・」
少女は再び下を向く。切原の無遠慮な視線が耐えられないのだろう、耳まで赤く染まっていた。痛いほど伸ばされた肘が小刻みに震えているのを見て、不意に湧き上がってきた罪悪感。胸に走った痛みを感じる。
「ええと、・・・あー。その。ごめん」
反射的に顔を上げた少女に再び胸に痛みが走る。抉るような痛みに耐え兼ねて、少女の真っ直ぐな視線が痛くて、不意に切原は視線をずらす。まるで逃げたようだ、と思ったけれど、どうしてそんな行動に走ったのかは切原自身にも説明が付けられない。自問したところで恐らく徒労に終わる事だろう。妙なところに湧き上がる自信に苦笑していると、少女は再び下を向いた。固いスカートの生地に皺が寄るほど握り締める拳に、微かな震えが見えた。
「あ、その。私こそごめんなさい。ええと、あなたは悪くないんですから、私に謝らないでください。その、私はあまり男の子の友達が居ないので、ちょっと、いつも以上に緊張してしまって、その。他の学校の人だったから、ええと。・・・ごめんなさい」
「・・・ふーん。・・・じゃこれあげる。温かったらごめんね。烏龍茶だけどいい?」
戸惑う少女に押し付けるように烏龍茶のパックを渡す。細長いそれは表面をうっすらと濡らしていた。手から伝わった温度はまだひんやりとしていたから、そんなに温くなってはいないだろう。渡された飲料と切原を見比べて、少女は困ったように眉根を寄せていた。
「緊張していたら何か持っていたほうが安心するんだよ。俺、もう少し暇だからそれ飲んでてよ。人来るまで此処で待ってなきゃなんないんでしょ。俺もそうだし」切原は隣りに置いていたコンビニ袋を目の前にかざした。「まだ沢山あるし。一本減ったからって大丈夫だから」
不安そうに見上げてくる少女を宥めるように、切原は自らも一口飲んで見せた。いただきます、と小さな声が聞こえる。見てみると、少女はストローに手を伸ばしていた。そのまま、パックの穴に突き刺して口に含む。静かな音と共に、口内に液体が吸い込まれた。喉がしなり、一口二口と彼女の身体に消える。女の匂いに乏しい貧相な体。今頃あの茶色い水はあの、薄い腹へと辿りついているのだろうか。握り締めれば、いとも簡単に千切れてしまいそうな柔らかな肉があるのだろうか。切原は思う。喉の渇きを覚えて、まだ半分ほど残っているジュースをしかし、隣りに置いた。そしてぼんやりと指先を彼女に向けた。
腕が伸びる。水滴がついて湿った指先が、空気を切って彼女の肩へと触れた。その感触に気付いた彼女は切原を振り返る。大きく開いた彼女の目。このまま齧り付いたらどんな反応を返すのだろうか。思って、そして不意に笑い出したくなる。衝動を堪えながら切原は彼女を見つめつづけた。彼女は時折目線を向け、切原が自分を今だ捕らえている事に怯えているようだった。
「・・・あの」
「ああ、・・・ごめん」
いいえ、と彼女は再び下を向く。表情を隠すようにして横髪が流れ落ちた。風が吹く。彼女の横髪が、一瞬だけふわりと持ち上がる。やがてそれは静かに元の位置へと舞い戻る。そう、ほんの一瞬の出来事だった。それを切原は見逃さない。俯いた彼女の頬が赤く染まっていたのを、切原は見逃さなかった。視界を覆ったあの赤が鮮烈なまでに美しく思えて、そして何故か自分の頬もほのかな暖かさを感じていた。それが終り行く夏の日差しの為なのかは、彼には決して分かり得なかった。



終わりゆく夏の、ひを想え(200408)
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