ハサミは彼の手によく馴染んでいた。柄が、不器用なほどに輝いている。その眩しさから目を背けるようにして切原は桜乃の髪の毛を手に取る。桜乃は無感動に、ただ、其れを見つめていた。切原は其れが気に喰わないらしく、半ば投げやりに彼女の髪の毛を手元に手繰り寄せた。軽い音がして、彼女の髪の毛が数本、空を舞った。真っ直ぐに落ちてゆかない。右へ、左へ、細い糸は有機的な曲線を描く。何を思ってそんなに揺れているのか、分からなかった。
「きりたいのなら、どうぞ」
べつにいらないから、と桜乃は言った。その肌は透けていた。黒目は何処までも黒くて、白目は何処までも白かった。手首は細かった。肩は薄かった。腹は痩せていた。人形のようだった。しろいはだに透ける血管が堪らなく艶かしく、何も写していなさそうな瞳はいっそ陳腐なまでに扇情的だった。喉の渇きを感じて、切原は唾液を飲み込んだ。ごくりと喉が鳴った。それでも収まらなかった。彼はやや躊躇って、そしてはさみを足元に投げ捨てた。はさみは畳に片方の足だけ刺さる。それからややあって、左に倒れた。彼は別に構わなかった。そして彼女の貧しい唇に口付けた。彼女はやはり無感動のまま、それでも形だけ目を閉じた。男は体重を掛けた。
「おもい」
女は文句を言うが、それでも男に従って、仰向けに倒れてやった。
桜乃の肌は白かった。彼女は七の歳に売られてから、一度も日の元に遣られた事が無いからであった。彼女は陽を忘れていた。それほどまでに長い時間を此処で過ごしてきた。いつかは出ようなんて淡い期待を抱いたのはいつの事だったか。そんなもの、とうにはじけてきえてしまったわ。店の主人は言った。それがお前のいいところだと。その白さに男は騙されるんだよ、と。そうして主人も桜乃を抱いた。
「・・・出て行こうとは思わないの」
切原はぼんやりと言った。彼女に包まれるようにして、全身を預けながら、しかしその掌は彼女の緩やかな髪を弄んでいた。ほぼ毎日のように通うくせに、気まぐれにしか自分を抱こうとしないこの男。桜乃は不可解な気持ちで一杯だった。自分は安くない。店の他の妓と比べれば若干高い方であるのに。この男はよほどの金持ちであるのだろうか。
「はやくだいてください」
「質問してんのはこっちなんだけど」
「ねぇ、はやく」
桜乃はそれだけ言うと、彼の首を掴み、そして鎖骨に噛み付いた。先程塗った紅が肌に移った。蝋燭の光が照らす。綺麗と思う。しかしそれだけだった。桜乃は合せられた着物の、その隙間から手を這わせた。胸を辿り、腹を撫で、背中に回す。骨ばった背中が、思いのほか気持ちよくて、桜乃は幾度も掌を這わせていた。男も何時の間にか、桜乃の肩を肌蹴させていた。露出した肩に噛み付いていた。首筋にあたる男の癖毛が気持ち悪いと思った。
「そんな抱いて欲しいのなら俺の所にくれば」
「・・・馬鹿な事言わないで」
「馬鹿いってんのはどっちだよ」
「店を出ろってことでしょ。そんな金、あるわけない」
「出してあげようか」
無理よ、と桜乃は鼻で笑った。切原はそれに気が付かない振りをした。
やがて女は息が苦しいと、口を大きく開けた。嫌だ、とは決して言わなかった。足の付け根から、自分の中に侵入されても、嫌だとだけは絶対言わなかった。
ほんとうはいやだといいたかったのかもしれなかったけれども。

やがて男は中からずるりと引き出した。収まりきらなかったものが中から漏れて、布団に染みを作る。桜乃の視線の片隅に、大分前に男が投げ捨てたはさみが見えた。投げ出した掌を、懸命に動かす。ようやっとして、丸い穴の中に指を引っ掛けると、急いで手繰り寄せた。
「・・・はさみ」
男の呟きは無視をした。桜乃は自分の髪を一房とると、躊躇いもせずにはさみを入れた。軽い音がして、彼女が摘む一房分の髪が空に浮いていた。彼女は溜息を吐くと、其れを男に向かって投げ捨てた。
「もう来ないで」
「・・・客に向かってそれは無いんじゃない?」
「こっちから言わないと抱けないなんて客じゃないもの」
「そういう客が一人くらい居たほうがいいと思うけど」
「私は嫌いなんだもの」
「そう?」
といって男は桜乃を抱き寄せた。「俺は愛してるよ」とそう耳元で告げた。だから嫌いなの、と桜乃は思った。思っても無い事を、さも真実のように言い得るこの男が、堪らなく憎くて仕方なかった。どうしてこんなに憎くて仕方ないのか分からない。軽い混乱の中に、桜乃は眠気が襲ってきたのを感じた。逆らえずに目を閉じる。抱き寄せられた、背中に回す掌が、あやすように彼女を撫でる。遠い昔に感じた、母が傍にいるような気がして、桜乃は意図しない涙が込み上げるのを止められない。その瞬間、この男が憎い理由が唐突に分かって、しかし、其れは桜乃が理解する間も無く消えうせる。もう忘れてしまった、一瞬の陽の光を思い出し、そしてあまりに突飛な考えに、彼女は自嘲の笑みを漏らして、そして眠り襲われ闇に落ちた。



忘れてしまったあの日の、(200408)

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