お元気ですか。僕は元気です。
ってありきたりな文面しか思い浮かばないよ。手紙書くなんてどれくらいぶりだろう。こうやって真面目に机に座ってるのは卒業文集を書くとき以来かもしれません。ってああ! なんとなく敬語になっちゃう。まぁ、気にしないでくれると嬉しいです。
オランダはきれいなところです。今度、旅行とか計画してもいいかも。パンフとか集めておいてください。今度一緒に行こう。春でも夏でも秋でも冬でも。要するにどっか行こうよって事なんだけどね(笑)子供生まれてからでも、どっか行こう。それくらいのヘソクリはあるので心配無用だからね!
それではお休気をつけて。あと一週間で戻れます。待っててねー!

桜乃は受け取った文面に一通り目を通すと、笑みをこぼした。膨れてきた腹に掌を伸ばす。優しく撫でると、ほのかに暖かくて、もう一度桜乃は笑った。夫が胎教に良いと残していったクラッシックのCDを流し続けて一ヶ月になる。今日も桜乃は同じようにCDデッキに手を伸ばし、ボタンを押した。小さな音量で、ゆったりとした音楽が流れ出す。思わず聞き入りながら、桜乃はもう一度、手紙に目を落とした。最後の行の漢字が間違っている。お体、じゃなくてお休、になっている。見つめて、そして噴出した。笑いが止まらない。可愛いなあ、と思って、この文面を必死に連ねている夫の姿を思い浮かべた。出会った当初より刻まれた皺の一つ一つが脳裏に蘇る。そして急にたまらなく会いたくなって、声が聞きたくて、桜乃はソファに寝転んだ。耳元で柔らかなクッションが沈み込む。うー、と呻いて、桜乃は封筒を手繰り寄せる。
アルファベットで書かれた住所と名前はやはり何度見ても違和感があった。それが、この差出人が遠い異国の地にいるという事実を示していて、桜乃はまた切ない。呼べば飛んできてくれるって言ったじゃないですか、と呟いて、そして我侭なことを思った自分に腹が立った。
桜乃はソファを立ち上がり、デッキの隣に置いてあるエア・メール用の便箋を取り出した。

清純さん、お元気ですか。私は元気です。

一行目を書いたところで文章に詰まる。うーん、と考えあぐねて、その一枚目を破って捨てた。


私は元気です。清純さんも、お体気をつけて、無事に帰ってきてくださいね。

あれから毎日、CDを聞いてます。今はホルストの組曲「惑星」を聞いています。壮大な組曲で、とても好きです。
帰ってきたら、お好み焼きを作りましょう。材料用意して待ってます。つわりの事は心配しないでくださいね。私、どうやらとても軽いみたいで、全然辛くないんです。あ、でも最近酸っぱい物を食べています。昔は酸っぱ過ぎて食べられなかったようなものが食べられるようになりました。子供が出来ただけなのに、不思議です。日が経つ毎に、お腹も膨らんでいって、思わず子供の生命力には驚かされました。私も清純さんも、こうして母親にお腹の中で成長していたのだと思うと、なんだかこうしてお腹に子供を宿していることがとても嬉しくなってくるのだから、やっぱり不思議です。そうそう、この子が出来てから、周りで何かしら新しい発見があるんですよね。何気なく目にしていたものも、元からそこにあったものも、全てが輝いて見えて、毎日が凄く楽しいです。
早く帰って来て下さいね。会ってお話したいことが沢山あります。


一枚目はそこで終えた。まだ数行残っていたけれど、便箋から切り離し、三つに折って封筒に入れようとした。そしてふと思って、もう一度便箋とペンを手に取った。

でも、寂しいです。早く会いたい。

二枚目の便箋と一枚目を重ねて封筒に入れた。糊付けして、二軒先にあるポストに走った。赤い口に飲み込まれていた白い封筒は、とても軽かった。出してしまった、とポストに手を突き、ため息を吐く。心臓が大きく鳴っていた。落ち着け、と手をやった。胸の前で両手を合わせる。ふと気になって、空を仰いだ。この空の向こうに夫がいる。今は寝ているんだろうか、それとも、私のことを少しでも考えてくれているんだろうか。桜乃はその場を後にした。家に鍵を掛けていないのを思い出したのだ。
家に着くと、そばにある電話が鳴っているのが聞こえた。あわてて受話器をとって、名乗る。
「もしもし、桜乃?」と機械越しの曇った声がする。不意を付かれて、涙が出そうだと思った。
「手紙着いた? 昨日? うん、そうなの? あー我慢できなくて電話しちゃった。迷惑だった?・・・うん、そう、ありがとう。あと一週間で帰るから。早めに帰ります。直帰するから。・・・うん、ちゃんと寝てるよ。心配しないで。大丈夫、泣くなって。大丈夫だから。でも嬉しいから。桜乃ちゃんあんま自分の事抑えてばっかだからさ、こうやって我侭言ってもらえるの俺はとても嬉しいわけなんです。迷惑だなんて思ったこと無いから。絶対。ありえないありえない! ・・・うん、うん。仕事順調だよ。桜乃ちゃんも栄養とって一生懸命子供育ててね。早く生まれないかなー。名前考えないとね。帰ったら一緒に考えようよ。本いっぱい買ってくるから。・・・うん、じゃあ。・・・うん、すぐ帰るから。・・・うん」
中々電話が切れないでいるのは、向こうも同じことのようだ。私は、お腹に手を這わせた。撫でると、とてもなだらかな曲線を描いて、とても柔らかかった。暖かい、暖かい。涙が零れてこぼれてどうしようもない。手に持ったエアメールの宛名が、涙に濡れてぼやけていた。



想いを込めて、手紙を書きます(200411)
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