今から会えますか?
そう問われたメール画面に、すぐさまイエス、と送り返す。PC画面から顔を上げた同僚に「トイレに行く」と手短に告げ、席を立った。廊下に出ると、千石は走り出した。向こうから資料を抱えた女子社員がよろよろと近づいて来る。危うくぶつかりそうになったところを避け、ごめんと謝って再び走り出した。会社ビルの立派な自動ドアがゆっくりと開く。続く階段を降り切ったところに、彼女が一人でぽつんと佇んでいた。彼女は千石を見つけるとゆっくりと頭を下げる。それを千石は忌々しげに見守っていた。あんなにも近かった彼女との間が、もはや取り返しがつかないほど広く違えてしまったという事実。それが彼女の、千石へのお辞儀という態度に現れていた。
「久しぶりだね」と千石は無理に笑って見せた。彼女はそれを見て、控えめに笑う。ずっとそれは、出会った頃から変わらない。変わってしまったのは、自分の方なのか。
「突然、すみません。近くまで寄ったものですから・・・」
「ああ、いいよ。丁度暇だったし。寒くない? お腹に障るんじゃない?」
「・・・ちょっと、付き合っていただけますか?」
千石はそう言う、彼女の腹を見つめていた。ゆるく曲線を描く腹。服の上からでも十分に良く分かる、命を宿したその腹。不意に涙が出そうになって、寸での所でそれを堪える。彼女を母とし、千石以外を父としたその腹の児。彼女は千石に背を向け、歩き出す。それをぼんやりと見て、そして慌てて後ろを追った。
「予定は3ヶ月後なんです」「うん、そう」「この間は、引越しの手伝い、どうもありがとうございました」「ああ、うん」「もうすぐ冬ですね」「そう、だね」「お仕事、お忙しいですか」「うん、まあね」「まだ、私のこと好きですか」
「・・・桜乃」
「答えてください。まだ、私のこと好きですか」
彼女がこう言った瞬間、時が止まったのかと思った。背筋を氷が伝うような、冷たい恐怖感。振り向き、千石の目をしっかりと見据える彼女。ごくりと唾を飲み下す。それすらも周囲に響いているような気がして、千石は動けなくなる。じわじわと足元から何かがこみ上げてきて、やがてそれは彼の脳髄に反射し出す。頭蓋の中でボールが弾け飛んでいるようだ。目の前から急に色が消えた気がして、でも彼女のまっすぐな黒目だけは忘れられないほど彼の脳皮に焼き付いていた。
「千石さん、答えて」
「・・・・・・・それを俺が答えて、どうするの」
「答えて」
「答えたら桜乃ちゃん全部捨てて俺のところに来てくれる?」
「それは出来ません」
「ダンナさんのこと、愛してるから?」
「はい、愛しています」
彼女のその言葉に押し出されるように、千石は涙をこぼしだした。一度、堰を切ってあふれ出したものは中々止まらない。それは千石も同じで、何度両手で擦っても涙が途切れることは無かった。無我夢中で、傍にいた桜乃を抱き寄せた。桜乃の抵抗は無かった。それどころか彼女は千石の背中を両手であやしだす。母親のそれのようで、千石は涙が止まらない。口元を歪め、必死で声だけは漏らすまいとしていたが、無駄な努力だったのかも知れなかった。
君が好きだよ、君が他の人を愛してるのと同じくらい桜乃ちゃんのことが好きだよ
声にすら成らない想いは、どこに伝わるというのだろう。涙を流しているだけでは彼女に届くことは無い。それは分かっている、けれども知らなかった。どうして声に出したら彼女に伝わるのか分からなかった。ただ、ただ、泣くことしか残されてはいないのだ、彼には。
「私も、あなたの事が好きでした。多分、今でもあなたの事が好きなんだと思います。
でもそれだけじゃ駄目でした。私は弱虫だったから、それをあなたに伝えることが出来ませんでした。伝わらない想いを抱えて生きていけるほど、私は強くは在れませんでした。ごめんなさい、ごめんなさい」
そういって、瞳を閉じた彼女を千石は抱きしめた。もう戻らない、遠いあの日。この腕に収めておくには儚い夢だった。
夢はやがて明ける。それは分かっている。でもあと少し待ってくれないだろうか、神様。



夜はやがて明ける(200412)
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