山手線の、最新車両。ドアが軽い空気と機械の音を立てて開く。途端に流れる音楽。急かされる様に切原はドアを降りた。その後に続いて降りる二人組みの少女。回りからも数人が降りて、ぽっかりと口を開けた改札へと続く上り階段に吸い込まれていった。見ると、階段に収まりきらなかった人間が列を成しており、改めて東京の人間の多さに辟易とする。うんざりとした気分を抱えながら、切原も同じように上り階段へと足を動かした。
友人の友人の何とか、とか言う奴が個展を開くから見に来てくれ、と誘われたのは十日ほど前のことだった。随分熱心に頼むものだから、貴重な休みをその何とかとか言う写真家の個展に割く事にしたのが五日前。そのときリーフレットを半ば強引に押し付けられた。朝、荷物の中に適当に投げ入れたそれを取り出す。真ん中辺りで斜めに折れ曲がってしまっていたが、気にしなかった。開くと、会場までのルートが記載されている。どうやら駅と直結しているらしい。それだけを拾って、あたりを見渡すと、個展の看板が斜め前に立っていた。かなり本格的なものらしい事を悟って、ジーパンと汚いスニーカーを見下ろした。そういうふうに言ってくれよ、と誘った友人を心の中で毒づく。普段着のままで家を出てきたことを少しだけ後悔した。
電車を待っている間に買ったスポーツドリンクはこの暑さのせいで冷たさを無くしている。一口含んでみたが、舌に残るねっとりとした甘さが嫌で、傍にあったゴミ箱に半分中身が残るボトルを投げ捨てた。その場所に立った途端、隣にあるコンビニの自動ドアが軽やかな電子音と共に開いた。流れ込む冷気に誘われて切原は身体を滑り込ませる。自然と足が飲料のコーナーに向き、ショーケースのドアを開けた。右手が先ほども買った青いラベルのドリンクに伸びる。取ろうとして、温くなって捨てたことを思い出す。どうしようか、と視線を彷徨わせていると、傍に茶色いラベルの烏龍茶があった。目に入ったそれを手に取る。引き抜くとドアを閉めた。レジに向かう。コンビニのシールを張ったボトルを左手に持ち、自動ドアの前に立った。元の位置に戻って飲もうとしたが、そこにはすでに人が立っていた。女だった。長い髪をした、女。三つ編みを二つ作って背中に下げていた。俯いて、手に持った紙を見ていた。カーディガンを着ていたが、その上からでも肩の骨が浮き出ていている。見たことがあった。あの貧相な身体。光を反射しそうな白い肌。やたらとそこだけ浮かび上がっていて、目が離せない。鍔の広い帽子を被っていた。その帽子も白かった。髪の毛は黒い。肌は白い。パンダみたいだな、と喩えて目を離そうとしても、無駄だった。どうしても目が追ってしまう。彼女は時折改札のほうに目を遣っていた。それから後は必ず上からぶら下がった時計を見上げ、自分の腕にはめた銀色の時計を見比べていた。誰かを待っている事は直ぐに分かる。誰を待っているのだと、思って、そしてそんな思考が浮かんでしまったことを恥じるように目線を逸らす。逸らしてしまってから、バツが悪そうにもう一度彼女を伺った。その瞬間、切原を見た彼女と目があった。
彼女は屈託の無い笑みを浮かべる。屈託は無いが、遠慮はあった。一年も前に会ったきり女だ。切原は覚えていても彼女が覚えているはずも無い。多分、笑って見せたのは、切原の無遠慮な視線に耐えかねたのだろう。そこまで考えて、切原には言いようの知れない苛立ちが生まれた。覚えているのに忘れられた悔しさ。あの頃は子供だった彼女。いつの間に女の匂いを備えだしたのだろう。切原の知らない、彼女の一年。当たり前だ。彼女の名前すら知らない切原に、どうして傍にいて変化を見守ることが出来るだろう。凶暴なまでの攻撃的な衝動と、変に沈み込む哀しみが共存していて、可笑しかった。笑い出しそうだ。誰か助けてくれ。どうして彼女はここに居るんだ、と問うが、答えてくれるものなどあるはずも無い。そんなとき、唐突に彼女が切原のほうに歩み寄った。
「顔色が悪いですよ。大丈夫ですか」
腕を掴んで、彼女は自分のほうに切原の身体を引っ張る。いつの間にか噴出していた汗を彼女はかばんから出したハンカチで拭っていた。細い手首からは真っ青な血管が浮き出ている。脈を打つそれが、やたら艶かしく見えて、切原は目を閉じた。すると、唐突に浮かぶあの日の情景。彼女も烏龍茶のパックを飲んでいた。白いストローから、茶色い液体を吸い上げて、飲んでいた。肩に掌を置いた。彼女が一瞬びくりと跳ねた。掌に込めた力を強くする。彼女の肩は骨ばっていた。
「一年前に会ったんだよ、覚えてる?」
彼女が本当に忘れたかどうか、確かめてみたくなってそうして口にした。声が擦れて上手く出ない。縋るような問いに、本人が恥ずかしくなってやっぱりいいや、と手を振った。
「覚えてますよ。あの時はお茶をどうもありがとうございました」
思っても見なかった答えが彼女の咽を振るわせた。切原はその答えに耳を疑い、額を拭う彼女の手首を振り払った。彼女は驚いたようにハンカチを持ったままの手を胸の前に抱え込む。その様子を見て、切原はごめんと呟いた。ごめん、でもありがとう。そう呟いた。
「・・・これからどこかへ出かける予定だったんですか?」
彼女の問いに切原は肯く。そうして斜め前にある写真展の看板を指差した。
「偶然ですね。私も行くんですよ」
「じゃあ、一緒に行かない?」
言ってしまってから気が付いて、切原は口を押さえた。彼女は驚いていた。視線を彷徨わせている。嬉しそうにはにかんだ。
「ありがとうございます。でも、人を待っているので」
彼女のきっぱりとした言い口に切原はそう、とだけ返す。背中を壁に預けて、そうしてしゃがみ込んだ。急に下がった切原を追いかけて彼女もしゃがみ込む。プリーツのスカートの裾が道に触れた。切原はそれをぼんやりそれを見続ける。大丈夫、と肩に伸びた手を捕まえた。小さい手、と呟いた。彼女が聞き返す。掴んだ手を引っ張ると、彼女の身体がバランスを崩して、細い肩が切原の胸に飛び込んできた。彼女は顔を赤らめて謝る。その瞬間、彼女から何かが香った気がした。いい匂いだ、とそれだけ思った。
手を捕まえたままだったことを思い出した。バランスを崩したままの彼女。手を口元に持っていく。いい匂いが再び香る。自分の唇に彼女の震える手を押さえつけると彼女の肩が跳ねて、そうしてまた身体を崩した。あの、だとか、その、だとか何か慌てふためいていたが、それは無視をすることにする。口元を覆わせた手を舐めると、汗の混じった味がする。辛いなぁ、とぼんやり思う。急に溢れ出しそうになった涙を堪えるために、彼女の薄い肩に縋った。



待ち人は来ず(200506)

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