これが俺たちの最後の戦いだと、クロムは自らを鼓舞するように叫んだ。 その声に応えるように、ルフレはトロンの魔道書を握る手に力を込めた。手の汗がじんわりと革の表紙に滲むのも構わずに。 クロムは一際大きく叫びながら、彼の剣であるファルシオンを振りかぶり、あの禍々しい力の中心にいる男に斬りかかった。 男は、ルフレの持っている魔道書とよく似た本に魔力を込める。かの邪竜の名を冠した『魔書ギムレー』に。 クロムは魔法の発動を抑えようと剣を届かせようとするが、男の魔法の発露のほうが早かった。 魔書から放たれる、狂ったような力の波動が、クロムに襲い掛かる。力を封じられたままのファルシオンでは破るどころか受け止めることすら難しいだろう。 ルフレは至極冷静にそう判断すると、十分に魔力を蓄えさせた右手を、斜め上に向かって突き出した。鋭い雷が男の魔法の力を打ち滅ぼす。間髪入れずに前方に向かって鋭い雷を走らせる。狙いは男の胴体―――ではない。男が魔道書を持つ男の左手だ。 人が使う魔法のルーツは、竜族が発する頤からの光線に端を発する。 竜族が自由に行使するエネルギー波を研究していく過程で、人にも似たような力―――魔力と名づけられたそれが備わっていることが分かったが、竜族のそれと比べるのもおこがましいほどに貧弱なものでしかなかった。 その貧弱な力をどうにかして活用するため、人は地に膨大な情報量を持つ陣を描き、それを使って魔力を増幅させ、物理現象として発動させることを学んだ。実用―――戦闘に役立てるために携帯性に優れ、かつ陣に描いた膨大な情報を収めるために本の形の魔法陣―――魔道書が開発されたのはそれからすぐのことである。 魔道書を使うには、自らの身体から生じる魔力を一定の濃度にして流し込んでやる必要がある。魔力注入が成功すればその直後に魔道書によって増幅された魔力を受け取り魔法を発動することができるのだが、この、一定の濃度、というのが曲者で、かなりの集中を必要とし加減が難しい。そんな中で、よりイメージがつかみやすいようにとほとんどの人間は掌からの力の流入イメージを使うようで、それはルフレも、今彼女らが対峙している男も同じようだった。 故に、魔法の発動を防ぐには、魔道書に魔力を込めるのを中断させるか、魔力注入の際に使用者の気をそらしさえすればよい。もっと言えば、魔道書を手放させるだけでよい。手っ取り早く男からの脅威を取り除くため、ルフレは魔道書を持つ男の右手に、鋭い稲妻を走らせたのだ。 身を超えた力を行使しているせいか、男の痩せ衰えた手首は、ルフレのトロンに耐えきれるはずもなく、あっけなくその魔道書を手放した。死相がより濃く男の顔を彩る。隠しきれない焦りをそのどす黒く染まった顔に浮かべ、慌てて魔書ギムレーを拾いに走る。クロムがその隙を見過ごすはずもなく、右足に力を込め床を蹴る。そのまま懐に飛び込むようにファルシオンを男の身体に走らせた。 クロムの剣は致命傷を与えるには至らなかったが、それでも十分な傷を男に負わせた。幾ら敵を倒そうとも刃毀れ一つしない伝説の封剣の前を受け、男はそれでも最後の意地なのか、魔書ギムレーとは別の魔道書を手に取った。男のあきらめの悪さは称賛すべきところなのかも知れないとルフレは思いながらも、男の魔法の発動よりも刹那だけ早く、トロンを発動させる。発動させたトロンの勢いに負けたルフレは、反動で後ろに吹き飛んだ。城内の柱で背中を強かに打ち、痛みに呻き声を上げた。ただ、ルフレの放った稲妻は、真っ直ぐ男に向かって走り、クロムに付けられた深手も手伝い、その膝から地面に崩れさせた。 地面に倒れこみ、雷によって燃え上がる身体を見たクロムが、成し遂げたような表情でルフレの傍に近寄った。 二人が力を合わせた成果である、すべての元凶である男の焼ける死体を確かめさせるように、ルフレを抱き起す。 (なぜ、こんな残酷なものをあたしに見せるの?) ふと感じた、違和感だった。 「ルフレ、俺たちはやったんだ!敵を・・・ファウダーを、倒した!これで平和な世が来る!」 喜びを隠せない表情で、クロムはルフレに告げる。ルフレは、クロムの名をポツリと呼んだ。それは喜びからくるものだとクロムは勘違いをした。 「ルフレ、世界の危機は去ったんだ。お前のおかげだ。城に帰って□□□に早く会おう。俺たちの子だ。さみしい思いをさせただろうが、これからは俺とお前と□□□とで幸せに暮らそう」 そうね、とルフレはつぶやいた、気がした。(俺たちの子。―――あなたの、子。あなたは父親。ちちおや。おとうさま) 「そうだ、お前の子、だ。生まれてすぐに母親を引きはがしてしまって、さみしい思いをさせたと思う」 何か話したつもりはないのだが、クロムはルフレを愛おしそうに見つめながら、彼女に言い聞かせる。 痛みのためか、無意識に考えていることが口に出てしまったようだ。ルフレは顔を顰めた。(―――頭が、痛い) 打ったのは背中だと思ったのだが、頭も打っていたのだろうか。自覚すると痛みは増々酷くなる。 ルフレは目の前の、地面に平伏す、男の伸びた肢体を見る。邪竜を信奉するギムレー教団の教主、ファウダー。ルフレの、 「・・・・父親」 クロムは訝しげに彼女を見た。ルフレは凡庸した表情を浮かべていた。 父であったその屍を見て、ルフレはつぶやいた。 「あたしが、やったのね」 仕方のないことだった、とルフレの頭の中で声がする。 (仕方のないことだったの。あたしの父親であるファウダーは、邪竜ギムレーの復活を目指す、ギムレー教団の教主。ギムレーを復活させるわけにはいかないの。千年前の悲劇を、繰り返すつもり?) ―――本当にファウダーを殺す以外に、手はなかったの?あたしはあの子を、父親殺しをした娘の子にしてしまったのに?生かしたまま、力を取り上げてどこかへ幽閉するとかでも、よかったんじゃないかしら? (随分と酷な仕打ちを父親にするのね?じゃあ、あたしの子が、あたしの夫に同じような仕打ちをしても、あたしには責める資格はないわよね?) ―――そんなこと、あるわけないわ。 (本当に?あの子は、あたしの血を、引いているのに?) ―――父親殺しの。 「ああ、その通りだ」 クロムの発した言葉に目をむいた。頭痛が増す。視界の淵は黒く欠け、赤い靄がかかる。稲妻のような、黒い何かが、世界を汚している。 倒れたままのファウダーの身体に、何故か力が宿った気がした。 「お前は世界を救ったんだ。英雄だ。俺もそんなお前を妻にできて、鼻が高いぞ」 誇らしげに男が言う。男が笑う。ルフレは戸惑う。 ―――ああ、目の前のこの男は、誰だろう。 ルフレは無意識のうちに魔道書に手を触れた。一瞬のうちに増幅された力が掌に宿る。 瞬きにも満たない間に、その掌をルフレを抱き起す男の温かな腹部に触れさせると、そのまま力を解放した。 男の目が驚愕に見開いた。 「・・・ルフレ?」 男は口から血を吐きだした。ルフレを抱えた腕はそのままに、もう片方の手で口元を抑える。受け止めきれなかった血が、ルフレの顔に垂れた。どこか懐かしい、匂いだった。 そのとき、ゆっくりと燃える身体が起き上がる。倒していたと思った、父親だった。 男はぎこちなく振り返り、絶望に顔をゆがませながら、しかしルフレを案じるような表情を彼女に向けた。 「気にするな、お前の、せいじゃ、ない」 それが男の、ルフレの夫の―――クロムの最期だった。 ルフレは倒れこんだ夫の身体の傍ににじり寄る。雷で焼かれた傷からは、血が出ているわけではない。 (あたしは本当に酷い女ねえ、世界の敵である男の実の子で、イーリス聖王家にとって消えない汚点を生み落して。こーんな酷い女を愛してくれた、たった一人の男を、とち狂ったとはいえ、自ら殺しちゃうんですもん。頭おかしいんじゃない?何が軍師様、よ。ちやほやされて、うれしかった?いままでだーれも愛してくれなかったんだもんね) 幼少のころの父親との記憶をぼんやりと思い出す。 温かなベッド、広い部屋、大きな本棚、読み切れない大量の本。その中には魔法に関する書物も、剣に関する書物も戦術に関する書物もすべてがある。 快適なはずの部屋の中に、一人きりでいる少女。それがルフレであった。運動らしい運動をすることがない、外界の刺激のまったくない生活を送るルフレの体格は子供と言って差し支えない。年齢はある程度行っているはずだが、本来来るべき成長期がまったくと言ってこなかったのだ。今から思うとよくクロムの妻として、子供まで産めたのは奇跡ともいえるだろう。この体格に感謝したのは、盗人よろしく上部についている採光用の窓から脱走した時くらいだ。 父親は週に1度は訪れたがルフレ本人にはついぞ興味がないようで、彼女の成長のみ待っているといった風であった。 囚人とは読んだ書物で知ったのだが、まさしくルフレはそれであった。 (本を読んで、戦術を勉強して、剣を学んで、魔道書の使い方を覚えて。でも誰にも本心は見せずに。皆を利用して。あなたは皆に愛してもらいたかっただけでしょ?あなたは誰も愛そうとしなかったくせに。あなたの夫だって、あなた本当は愛していなかったんじゃない?あなた、自分が夫に愛されるようにしか行動していなかったものね。あざといわねぇ、我ながら嫌になっちゃう) クロムの頬に手を触れた。どんどんと失われていく温もりをせめてかき集めようと、腕の中に抱き込む。 ボロボロと涙が零れる。 (あら、泣いてるの?どうして?ああそっか、愛してくれたクロムくんを失って、こーんなかわいそうなアタシ、みたいな感じなんだよね?同情してほしいんだよね。本当かわいそう。あたし、あなたなんて大っ嫌い。多分みんなもあなたのこと嫌いだと思うわ。 なにせ、父親を殺したことで動揺して、自分の夫を殺しちゃうんだもん。あたし知らなかったけど、あなた本当はお父さんのこと好きだったの?まあある意味愛されてたみたいだけどね。道具として、みたいだけど。 でもさぁ、あたしだったらあんなダメオヤジのファウダーとイケメン夫のクロムくんならクロムくん選ぶのが正解だと思うよ?将来性が違うじゃない!邪竜復活、まぁ邪竜って言われるのは個人的に心外なんだけどね、を目論む世界を滅ぼす悪の教祖さまと、世界を救おうと平和に導こうとする正義の王様とだったら、どう考えても後者を選ぶべきじゃない?) (このままみんなの前に行ったらどういう反応されるかしら。なーんでクロムくんを殺したんだーって言われちゃうかもね。みんなから責められて、無視されて、閉じ込められて、殺されちゃうかも。あなたの子、名前忘れちゃったけど、多分あの子もあなたの子だから、殺されちゃうわね。かわいそうに。 これも全部ぜーんぶぜーんぶ!あなたのせいなんだから!) どことなく嬉しそうな声に、ルフレは頷いた。 (もうあなたなんて、生きていたって仕方ないんじゃない? あなたのこと大っ嫌いだけど、その肉だけはもらってあげる) ―――そうね。 応えた瞬間、ルフレの残った意識を邪竜が喰らっていく。 (あんたは死ぬことすら許さない。ずっとあたしの憑代として生きてもらうわ。 まぁ一個だけ訂正してあげる。あたし、あんたの絶望は大好きよ。ひどく、気持ちいいわ) ファウダーは業火の炎を纏いながら、起き上がる。 しかしその瞳は底が見えぬほどの暗い輝きを見せていた。 「ルフレ、さあ今こそ、器として覚醒せよ」 勝ち誇ったファウダーの咆哮が、すべてを覆い尽くす。 (もしやり直せるなら、あなた、いっそ記憶喪失にでもなれば?そしたら変な躊躇いも浮かばなかったと思うわ) ―――そうなら、嬉しいわ。 最期にルフレの意識は、そんな悔いを感じて、そうして消えた。 ● 「・・・おにいちゃん、ねぇ大丈夫かな?」 「だめかもしれんな・・」 「そんなぁ!」 軽やかな少女の声が聞こえる。穏やかな風。気持ちがよい。 どうしてあたしはこんなところにいるんだろう。でも、今はただただ酷く、眠い。 「こんなところで寝てると風邪ひくぞ?」 ―――どうしてあたしを起こすの? ひどく懐かしい声がする。思わず目を開けると、心配そうに覗き込むようにする少女の顔が飛び込んできた。 驚き、即座に違う方向を向くと、また別の顔がある。 どことなく覚えのある顔とは、ほんの少しだけ異なった、幼さの残る。―――まるで、出会ったときのような。 そこまで考えて、ふと疑問に思う。初めて会う顔のはずだというのに。 「立てるか?」 手を差し出される。 恐る恐る手を出してみると、彼はしっかりと握り返し、ずいぶんと小柄な身体を引っ張り上げようと力を込めた。 断章勝手にノベライズ(2012/05/26) 戻る |