イーリス城前では、三日に一度盛大な市場が開かれる。邪竜との戦いを経てついた傷などみじんも感じられないその光景に満足げに頷くと、男は人目を避けるようにフードをかぶり直した。
「あら、奥さんのところも?」
「そうなのよ、最近本ばかり読んで。一日中だらだらして」
「本読むならせめて魔道士の勉強でもしてくれるんならいいんだけど」
「残念ながらうちの息子はそんな高尚なことやってくれないわよ」
「何年か前みたく、屍兵が出没して生きるか死ぬか、っていうわけじゃないじゃない? だから主人なんかはほっとけ、っていうんだけど、ねぇ。いつまでもじゃ困るじゃない?」
「そういえば王妃様もっていう噂もあるけど、本当なのかしらね」
「最近、国王様とご一緒のところお見かけしてないわね」
聞こえてきた中年女性の会話にぎくりとして、思わず顔を上げた。
深めにかぶっていたフードが脱げかけているのを慌てて戻す。手にしてた籠が少し傾く。咄嗟に差し出した手によっておそらく無事であろう。
「おとうさま?」
と小さな手をつなぐ娘が声をかけてくる。それに大丈夫だ、と短く言葉を返すと、どことなく妻の面影が日増しにこくなる娘は満面の笑みを浮かべる。
「早くお会いしたいです」
と娘は何かを探すように、所狭しと展開している屋台に目を向けた。ようやくお好みのものが見つかったのか、その前に走り出していくと、真っ赤に色づいたリンゴを手に取った。
「お嬢ちゃん、リンゴがほしいのかい」
店主が声をかける。
「おかあさまに差し上げるの、リンゴがお好きだから」
「そうかい、おかあさん思いのいい子だね。じゃあ、そっちのよりこっちにしたほうがいい。蜜がたくさん入っているよ。おまけもしてやろう」
「本当?ありがとう!」
店主から渡されたリンゴを手に持ち、娘が笑う。
「店主、すまない。ありがとう」
と男は財布から金を出し代金を支払う。娘さんと仲良くな、と店主に見送られて立ち去ろうとすると、再び先ほどの婦人たちのおしゃべりが聞こえてきた。
――王妃様にはこんなうわさがあるのよ。お体に障りがあるから、最近お出ましにならないんじゃないか、って!
――え、それって、もしかして、おめでたなのかしら?
今度こそ手にしていた籠を落としそうになる。それを目ざとく見つけた娘に眉を立てて叱られてしまった。





うちの妻、つまりイーリス聖王国王妃様はいわゆる引きこもりだ。
もちろんご婦人たちの噂話通りおめでたなどでは断じてない。
ずっと家の中に居て、最低限の用事(排泄やら、入浴やら)以外ではほとんど自室にこもりっぱなしという状態の人間が、邪竜との戦いで負った傷が癒え、豊かになるにつれこのイーリス聖王国でも徐々に増えてきている。
まだ問題視されるほどではないが、フレデリクなどはこのことを非常に問題視していて、盛んに対策を立てようと躍起になっている。そのせいかもとよりあまり妻のことをよく思っていないようだが、それはそれ、とフレデリクのありがたくもしつこい忠告を俺一家はとりあえず無視をしている。
先ほどの婦人たちの会話にもあるとおり、お荷物扱いされる引きこもりだが、妻のルフレは引きこもる前は非常に優秀な軍師だった。一部では神格視すらされ、神軍師などと呼ばれたりもしてしていたほどだ。そんな妻が、ある日突然、ともに戦った仲間たちを集めると、一段高いところに上がり、朗々とした声で、
「あたし家を買ったの。もう一歩もそこから出ないから」
と宣言するとその日のうちにいつの間にか用意していたイーリス城北に位置する小さな家屋に引きこもってしまった。皆が唖然としている間に事を成した妻が、まさしく疾風迅雷のスキル持ちであることをまざまざと思い知らされた。宣言通り、城にも出ず、国事にも出ず、諸外国からの来賓すらも相手にしようとせず、昔の勇敢な姿は見る影もなく今日も元気一杯に引きこもりを続けている。自らの命を懸けて邪竜を滅ぼした妻だ、一度決めたことは誰が何と言おうと押し通す、そんな姿だけは相変わらずだった。
俺が調べる限り、引きこもりは基本自宅の自室にこもり、生活費などはすべて親の脛かじりということだったが、妻のは一味違っていた。なにせ引きこもるための家を自らで用意し、そこで引きこもるための様々な手筈(日用品だったり、食糧代わりの回復薬など)はすべて完璧に手配してからの引きこもりだ。もちろん業者に渡すための金は、従軍時代に敵を狩りまくっていた妻のことだ、大量にある。妻の貯金額を知ったフレデリクやリズが泣きそうになっていたことは記憶に新しい。俺や娘が、せめてこの家ではなく城で引きこもってくれと懇願するが、妻は困ったように貯金が付きたら考えると繰り返している。初めは半年もすれば貯金も底をつくだろうと楽観視していたのだが、いつの間にか貯金が増えていることもあって、問いただすと、クエストの成功報酬だとか、リーチ一発ツモドラ2だとか、よく分らない曖昧な答えが返ってくる。もちろん妻はその間一歩も家から出ていない。なぜわかるかというと、この家には外に出るための靴がなく、妻はいつも裸足で過ごしているからだ。(ちなみに、裸足で過ごせるよう家屋の床もそれなりの改修を行ったらしい。最終的には部屋をタタミとやらにしたいという野望もあるらしいが、タタミとはなんなのか、俺は知らない)
『快適な引きこもりライフ』を続ける我らが王妃様であるが、時間はたんまりある癖に身の回りのことは何一つしなかった。夜は眠らず、掃除はできず、料理をすれば鋼の味と三拍子そろった生活音痴だ。引きこもっている以外は一人住まいをしているのと同等のこの状態で、妻がどうなるかなんて火を見るより明らかだった。妻はその生活能力に重大な欠損を抱えているために、俺がいないと何もできない。
従軍していたときも、妻は特に何も言わずに洗濯やら食事の用意やらをしようとしてくれていたのだが、なにせ壊滅的に不器用なのだ。洗濯後の衣服が雑巾としての用途もないほど引き裂かれていたり、料理をすれば鋼の味がするものが出来上がったり、テント中に散らばった魔道書の中から本人を発掘したりと伝説には事欠かない。買い物を頼めば三回に一回はギムレー教団に攫われるという次第だ。なのに一人で買い物に行きたがる。あまりにうるさいのでこっそり後を付けて行ったことも何度かある。帰ってきた妻(当時は妻ではなかったが)を何食わぬ顔で出迎えたとき、これからは買い出しはあたしの仕事ね、と見事なドヤ顔をするので救いようがない。だがちょっとかわいい。
妻が住まう家に辿り着くと、娘が俺の真似をして扉をノックした。
「おかあさまー、おはようございますー!」
娘が声をかける。薄い扉のため、よく聞こえるらしい。とたとたと軽い足音がして、すぐに扉があいた。妻の顔が喜色に輝く。娘を抱き上げて部屋に招き入れるのを見て、俺は開け放たれたままの扉を閉めた。この家では靴を脱ぐのがルールだ。そのほうが引きこもるのに掃除する頻度が少なくて済むから楽なのよ、とは妻の言だった。
娘と妻が朝食を用意しようと籠の中からパンを取り出す。今朝買ったリンゴを見せると、妻は嬉しそうに包丁を取り出した。皮をむき始めると、娘もやりたそうに見ているが、妻は危ないからと渡そうとはしなかった。その代りに皮をむいた後のリンゴを食べやすい大きさに切るのは娘の仕事だ。俺なんかは、もう剣を稽古で扱い始めていたりもするからいいんじゃないかと言ったりもするが、妻曰く、包丁の扱いと剣の扱いは違うからまだ危ないのだ、と口を酸っぱくする。九割が鋼スープの癖にというとむくれる。だがちょっとかわいい。
用意が整ったところで朝食だ。おいしいおいしいと料理を食べ、娘と笑いあう妻の顔を見ながら、甘やかしすぎなのだろうか、と自問自答する。だが、不意にかけられるとろけそうな笑顔に、かわいいからいいかと思考を投げた。
邪竜ギムレーを、その命で葬るという決断をし、その通りに行動した妻が、消滅したあの瞬間の絶望を思えば、今は幸せに余る。あの時はこんな未来がやってくるとは思えなかった。従軍時の妻は、自身の出生を知った後、はそれはもう痛ましいほどに働いていた。知る前もその傾向があったのが、さらにエスカレートしたのだ。仲間を死なせず、なるべく損害も少なく、早めに決着をつけるための布陣は作戦は何か、寝ずに考えることもしばしばだった。数日ぶっとおしで行動し続け、そのあと糸が切れたように泥のように数時間眠るというのを繰り返した結果、妻の身体は剣も握れないほどに衰えてしまったこともある。仲間たちが止めるのを聞かずに魔道書を持ち、それでも妻は戦場に立っていた。そんな妻を心配するだけで、止められなかったことを俺は悔いている。その結果がギムレーと刺し違える妻の姿だったように考えているからだ。
「今日のパンとジャムは、私が作ったんですよ」
と娘が胸を張る。それに感激した妻がうっすらと涙を浮かべながら娘に抱き着いた。
「もう、ルキナはお料理上手ね!おかあさんうれしい!!いいお嫁さんになるわね!」
えへへと娘が笑う。まだちょっと早いんじゃないだろうか。
「明日の朝はこれそうにないから、また夜に来るよ」
「いいわよ、大丈夫。ちゃんと買い置きがあるから」
「・・・たまには一緒に城で食事をとらないか?」
「うーん、苦手なことってあんまりやりたくないじゃない?」
困ったように、しかししれっと外出が苦手だと言われて言葉に詰まりながらも、お前らしいとなんとか苦笑いを浮かべた。娘は妻に体中で抱き着きながら、「おとうさま、おかあさまをこまらせちゃだめ」と非難する。2対1だ。勝ち目のない戦いに白旗を上げた。というより娘よ、ちょっとそこ代わって。というかご婦人たちの噂話を本当にしてやろうか。
幼い娘に嫉妬を覚えながらも、彼女たちの笑顔を目にすると自然に微笑ましく見守ってしまう。やさしい空気にくすぐったさを覚える。まあしばらくこのままでいいか、と考えを投げた。フレデリクあたりにまた小言を言われるな、と思いながらも俺はこの生活を手放せそうにない。
仕方がない。俺の妻は俺がいないと何もできないのだから。



夫と娘が城に帰ったのを見送り、ルフレは部屋に戻る。テーブルの上に置いてある籠に入ったバナナを手に取った。
むくとおいしそうな匂いが鼻をくすぐる。口に含むとほのかな甘みが舌に広がった。ご丁寧に、ちゃんと三食食べること、と書置きまで見つけて、お前はあたしのかあちゃんかと(母のことは残念ながら記憶にないが)、夫の気遣いっぷりに少し引いてしまった。
夫は自分がこうして食事を運ばないとあたしが飢死するのだと信じている。この家には定期的に届けられる携帯食があるため、味と粗末ささえ我慢すれば飢えることはない。だが、やはり短い間に城にいた経験で、すっかり舌が肥えてしまい、やはり携帯食では満足できずに食事を抜くことがある。・・・あれ、夫の心配はあながち間違っていないかもしれないと一人結論を導きかけるが慌てて首を振ってその考えを追い出した。引きこもりの運動量なめんな、一日二日食事を抜いたところでカロリー収支的にはなんの問題もないはずだ。
たしかに料理は鋼の味だし、洗濯をするためにウインドとサンダーを使って手早く時短を目論んだら、衣服を布の切れ端にジョブチェンジさせてしまったことがあるし、出自を知った後はワーカホリックが加速してしまったし。しまいには敵と心中かました前科持ちであるため夫の心配は無理もないかもしれないが、夜は寝ろだのちゃんと掃除しろだの食事をきちんと取れだの、小さな子供じゃあるまいし、夫の口やかましさに邪竜の器に選ばれたほどの広い海のような心を持つのあたしでも少しイライラする。邪竜の器って広い心を持つ人間から選ばれるのだろうか?まあいいか。
実際社会生活を送ることを拒否して大絶賛引きこもりを続ける人間が言っても説得力がない。本当に言ったら夫の構いたがりが加速するだろう。流石に城の仕事をほっぽっとかれるのは寝覚めが悪い。
だがこれらもすべてあの人が悪いと責任をあることないことなすりつけてあたしは心の平穏を図る。そもそも夫のせいなのだ。あたしが引きこもりになった原因は。

明かりを取り入れるために開けられた窓をすべて閉じ、扉に固く鍵をする。ウサちゃんリンゴの入った容器を手に取り、奥の部屋に入る。部屋の扉の鍵も閉めると、要塞の完成だ。端末のスイッチを入れると機械が稼働し始める。と同時に暖房も稼働し始めた。外はもう冬だ。肌寒いなか、ここは世界で一番あたたかくて安全な部屋であろう。ここであたしは世界の危機に向き合う任務に入るのであります。ほんの少しの時間で、部屋中に装置が動作する音が満ちた。魔道書を開き、小さく呪文をつぶやく。しばらくたつと、そこには今朝別れたはずの夫と娘の姿が現れた。それを確認すると、集音のための装置を両耳に付ける。耳あてのような形をしたそこには、あたしの声を集めるための装置も付いていた。これに向かってしゃべれ、と言われている。装置の名前は、ヘッドなんとかとインカム?インカメ?亀?・・その、亀だか鴨だかの装置に声を吹き込んだ。
「イーリス国軍情報管理隊のルフレです。現時刻より対象の監視を実施します」
「了解しました。本日も任務ご苦労様です。・・・少し遅かったですね。寝坊しないでくださいとあれほど」
「一家団らんを行っていました。いいじゃないですかそれくらい。小言が多いとクロムに嫌われるわよフレデリク」
ぐ、と言いよどむ向こうの声にしてやったりとあたしは小さくガッツポーズを出す。劣勢を悟ったのか、向こうの声――フレデリクはしぶしぶといった声で、
「・・・わかりました、対象の監視を続けてください」
と言ったあと通信を切る。次の連絡はお昼すぎだ。それまではこの暗い部屋の中から、夫の姿を見続ける。
夫にはもちろん内緒だが、実はまだあたしは従軍中の身だ。この部屋に潜伏しているのは任務のためなのである。部屋にある夫の姿が映し出された装置、通称「クロム様監視魔法」と呼ばれる魔道書の開発やら何やらすべてを取り仕切り、行ったのは軍の情報管理隊の人間だ。あたしはここで夫の姿をほぼ24時間ずっと監視し続ける任務に就いている。
プライバシー何それおいしいの?という人権無視も甚だしい、ゲスここに極まれりな任務であるが、他の誰に見られるよりまし、とあたしはこの任務にしぶしぶ納得してついている。おかげで昔の仲間には引きこもりとして距離を微妙に置かれ、娘にさみしい思いをさせ、おまけに城内では腫物に触るような扱いを受けている。でも仕方がない。夫はあたしが守らなければならないのだ。
それに反発心しか湧かないのだけれど、フレデリクをはじめとする軍上層部の意見も切り捨てるわけにもいかなかった。夫は世界の安定にとってはもはや危険な存在になってしまったのだとのことだ。かといって、彼はこのイーリス聖王国の純然たる国王様だ。国王を弑したり軟禁したりするのはただの反逆であり、そもそも国王ラブなこのプロジェクトの責任者フレデリクが許すはずもない。というよりそんな考えを持つ人間がこの国にいるわけがなかった。
さらにタチが悪いことに、本人に自覚がまったくなく、さらに分ってたとしても制御できる問題でもなかった。こうなれば自分たちの取れる手段としては、夫に自覚させずに、夫の心を乱すようなことを可能な限り先走って解決できるように、この最低な覗き見及び尾行行為を続けている。ばれたときのことは恐ろしくて考えたくない。終わる。なにかとはいわないが、終わる。
ともあれ、フレデリクとあたしと他数名の超小規模プロジェクト『クロム様を見守り隊』は日夜活動を続けているのだ。以上説明おわり。

夫は昼過ぎまで政務を行い、その後何の用事もなければ見回りを行っている。あたしには口を酸っぱくして食事を取れ取れいうくせに自分では仕事に没頭して取らないこともままだ。少し疲れたように椅子に腰かけたままする背伸びをしていた。おっとキャプチャーキャプチャー。あとでフレデリクに自慢してやろう。
「フレデリク、クロムにお昼を持って行ってあげて。サンドイッチとかでいいと思う」
「・・・わかりました」
あたしに先を越して夫に気を回したのがよほど不満なようで、むくれた声が耳に届く。やーいざまあ。政務中でも食べやすいような食事を指定したのはせめてもの内助の功ということにしてほしい。本当は直接持って行ってあげたいし、政務も手伝ってあげたい(わかるところは)。可能であれば政務から離れて食事をとってほしいが、仕方がない。そもそも、おそらく夫の中では、この気を回したのはあたしではなくフレデリクということになるのだから、少しくらいは譲ってくれてもいいんじゃないかと思ってしまう。争奪戦においては圧倒的不利な状況なのだあたしは。これも引きこもりとなってしまったせいだ。任務をいいつけたフレデリクに、心の中でだけ呪いの言葉をぶつける。お腹でも壊せ、こんちくしょう。
夫はしばらくすると、見回りに出掛けて行った。朝と同じようにフード付きのマントをかぶる。あくまでお忍びだからだ。王子の身分であったときには、そんなものつけて歩かなかったが、王位を継いだ今となっては、みだりに姿を見せるのもあまりよくないのだろう。痛ましさに胸が詰まった。おっと本日のマント姿をキャプらないと。
一応軍の兵士をそれとわからないように何人か連れ立って歩いている。今日は西のほうに行くようだ。中心から外れるにつれ、建物が少なくなり、代わりに畑が増える。よく実っている作物に、満足そうにしていた。そうしてまたしばらく歩く。川にかかっている橋の傍まで行こうとしているらしい。嫌な予感がして先に橋の近くの様子を確認する。そこにはなんというか案の定というか、盗賊団がお控えなすっていた。
「フレデリクさん、東の川沿いの橋に盗賊団がいます。ていうか警備くらいしてください」
「仕方がないじゃないですか、少数精鋭なので兵の頭数が足りないんです」
「御託はいいです。このままだとすぐに盗賊団にクロムのことがばれます。天馬騎士団をだせますか?」
「ルフレさんももっと早く警告してください。クロム様に見惚れてないで仕事してください。・・・すぐに声をかけます」
そういってフレデリクが通信を切った音がした。早く、早くとせかす鼓動を抑え、あたしは目の前の夫の姿を見る。どうかお願い、両方とも気が付かないで、と現金なことを考えているが、どうやら状況は最悪のようだ。盗賊団はどうやら人質を確保している。
心配もむなしく、しばらくすると夫が盗賊団のことを認めてしまった。運悪く、縛られた人質の女性も一緒だ。明らかに恐怖している女性に、夫が怒りを隠せず走り出す。天馬騎士団はまだなの?!
「おい、何してるんだ!」
夫の声が鋭く飛ぶ。よく通るいい声をしていると聞き惚れるが、そんなことをしている場合ではない。一歩間違えば世界が終わる。おい盗賊団わかってんなら人質の女そこにおいてできれば自首しろ馬鹿野郎。あと護衛おまえら仕事しろ。夫より大分足遅いじゃない。フレデリクにちくって兵士の訓練をもっときつくしてもらわないと。
女性は震える声で助けて、と叫んだ。余計なことをするな、と盗賊団の一人にナイフを当てられる。ひっとすくんだ彼女はそれから声すら出せなくなってしまったようだ。
「あいつ、国王のクロムですぜ」
走り寄る際にフードが脱げてしまった夫の姿に、余計なことを気付いた人間がいたらしい。あいつあとで死刑だな、と物騒なことを考えてしまう。
「そうだが、それがどうした?」
肯定する夫の言に、頭目が人相の悪い顔に笑みを浮かべた。うわ、視界の暴力だと目をふさぎたい気持ちになるが、それは杞憂だった。だってすらりと剣を抜く夫の姿がかなり恰好よすぎて視界が浄化されんばかりだったのだから。当然コマ送りでキャプチャー済みです。そろそろディスク容量が足りないかもと『本日のクロム』フォルダに画像を保存した。後でディスク拡張とバックアップ取得用の追加ディスクの要望を出そう。キャプチャーいくつかで手を打つはずだ。
それにしても天馬騎士団遅い、とイラつき始めるとようやくフレデリクから連絡が来る。あれからすぐにスミアとティアモに会い、向かわせたらしい。ベストな人材だわ、と喝采を上げたい気分だったが、目の前の映像を注視するほうが先決だった。
「その女性を解放しろ」
「そうだな、条件がある。お前が人質になれ」
国をゆするつもりかこの馬鹿盗賊団!お願いだから―――
「わかった」
なんて言わないでね、と思ったけれど時すでに遅し。あっさり頷く夫の姿が目の前に映し出されている。
「女性は解放しろ」
言いながら、剣を鞘に納める。夫が盗賊団に向かって歩いていく。盗賊が女を縛っていた縄を切った。そして背中を押され、歩き出した――――。
「クロム様!」
とそこにユニゾンで声が落ちてきた。ようやく来たスミアとティアモだ。
「天馬騎士団か?!くそ、裏切りやがって!」
と声を荒げたのは頭目ではなかった。解放されたはずの女性だった。どこに隠し持っていたのか、ナイフを手に夫に襲い掛かる。夫は驚きのまま、咄嗟に前に出した剣の鞘で攻撃を防ぐ。スミアが夫の前に立ち、ティアモが女からナイフを取り上げて取り押さえた。
「あんた達は逃げな!」
女が盗賊団に向かって叫んだ。団員は散り散りになって逃げていくが、たった一人頭目の男だけが、女房を置いて逃げられるかと叫ぶと猛然とティアモに襲い掛かる。それを防ごうと兵士が剣を男に向かって構えた。
「待て、殺すな!」
夫が叫ぶが、兵士の剣は男を袈裟懸けに切る。あの出血量ではすぐに事切れるだろう。何度か痙攣を起こすと、男の身体はあえなく地に伏した。ティアモと、取り押さえられた女に血糊が飛ぶ。
「なんで殺した!」
夫が怒りにかませて叫ぶ。悲痛な声だった。
あたしも怒りのあまり叫んだ。またご近所から叱られるが構わなかった。思わず拳で机を叩く。骨が削れる変な音がするが、気にしてなどいられない。瞼を上げすぎているせいで眼球が乾く。今すぐそこに行きたい。彼の傍に行きたい。何もかもうまくいってたのに。頭目は当身でも喰らわせればよかっただろうに、その程度のことができずに兵士名乗ってんじゃねえ、と思いつく限りの悪態をつく。視線だけであの兵士を殺せるなら殺していた。
取り押さえられた女が、男の血を顔に浴びた女が憎悪の目を向けて夫を睨む。何かを震える口で告げようとするのを見て、咄嗟に声を上げた。
「フレデリク、ティアモに女を黙らせて!」
噛み付かんばかりに声を上げる。頭の装置から口元に伸びる小さな集音装置に唾が飛んだ。
だが、その指示が実行されるよりも早く、女が憎悪にまみれた声を上げる。
それは世界を終焉へと導く言葉だった。
「あたしを助けようとしただけじゃないか・・・!王様はあたしたちの命なんてどうでもいいってか!お前が死ねばよかったのに!!」
うわあああああああ、と悲鳴を上げた。隣のおじさんがうるせーよ、と叫ぶ声がどことなく遠い。ああ、今朝のパンおいしかったな、と取り留めもないことを考える。うん、色々あったけどこの人生楽しかった。
夫の顔から血の気が引き、目が金色に光りだす。彼の中から発した嫌な風が吹き始めた。スミアがおろおろとその光景を見る。彼のことを突き放す行為は、最も避けるべき行為だ。彼の人としての自我が、神とすら呼ばれた竜の力をこの場に固定する貧弱な防波堤なのだ。竜の力に比べたら自我などあまりに脆い。歯止めを失った力は、暴走し、ついには世界からすべてを薙ぎ払うだろう。つまり、この覚醒を止められなかったら、世界が終わる。
「スミアにクロムを殴って気絶させるように伝達して!」
集音装置にあらん限りの声量で命令を飛ばす。フレデリクがそのままスミアに内容を伝達する。映像の中のスミアはフレデリクから伝えられた内容について驚きを隠さなかったが、とりあえず命令は命令と、持っていた盾を振り上げ、渾身の力を持ってクロムの背中に叩きつけた。
「多少の災害は仕方がないわ。このままにしてたら皆吹き飛ぶ」
このイーリス城の北に位置する、単なる市街地の単なる家屋の暗い一室で世界の命運を左右する命令を下す引きこもりなんて、本当に冗談じゃないかと今でも思う。しかし、何度頬をつねってもそれは現実で、今目の前の映像では世界で一番危険な存在が目覚めようとしている。手元の器にはウサちゃんリンゴがまだ一つだけ残っている。不器用で、耳の長さが両方違うそれだ。今朝娘が作ってくれた。なんだか嘘みたいだ。・・・どちらが?
「・・・あとは、あたしが何とかするわ」
よく言ったものだと自嘲する。何の力もない、ただぼんやり映像を眺めるだけのこのあたしが。立場は王妃なのかもしれないが、この生活を初めてから、事情の知らない城の人間からは離婚を暗に仄めかされるただの引きこもりのしかも邪竜の器が。王として政務を積極的にこなし、市民の覚えもめでたく、しかも神竜の力を宿した彼をなんとかする、――支える、などとよく言ったものだ。だが、やるしかない。それがこんなあたしでも必要としてくれているという、彼の愛だけは信じていたいとそう思う。
映像をそのまま注視する。スミアの打撃によっていい感じで気を失ったらしいクロムが、ばったりと倒れた。

フェリアの港が津波で壊滅状態にあると連絡があったのは、その日の夜のことだった。
その連絡を聞いたあたしは奥の部屋に籠った。先ほど打ち付けた拳が腫れ上がっているが、構わず泣きながら机に叩きつけた。たまらない。彼が拒絶されたのが。拒絶されたと、感じさせてしまったのが。



このイーリス聖王国が頂く国王は神竜様だ。
イーリス聖王家はその始まりを神竜ナーガに求めるため、間違った表現ではない。神竜としての力がその血の中に宿っているのだそうだ。その神竜の力は拮抗する邪竜ギムレーが居たおかげで、その力を押しとどめようとするほうに働いていたため、特に聖王家の人間の中に現れることはなかったのだが、邪竜ギムレーが完全消滅したために、夫の中の神竜の力が、目覚めてしまったのだということだ。過ぎたる力は世界の様々な現象に結び付き、彼の精神や肉体の損傷と連動して世界を滅ぼすものなのだという。
つまり、あたしが良かれと思って刺し違えたギムレーは、それはそれで存在価値があったということで。もっと早く言えよ、とあの時目にしたギムレーご本人(姿はあたしなのだが)に筋違いの恨みを抱いた。
この力の源であるナーガ様ご本人にももちろん相談したが、もちろん匙を投げられている。正直もう少し何とか知恵を授けてほしかった。というより刺し違えればギムレーを滅ぼせると伝えられたからやったのに、とあたしはそのとき初めてナーガ様のことを恨んだ。
聖王家の中で力が異常に強いのはわが夫だけのようで、その妹のリズには力の顕現はないようで、安心した。まあ安心できないのはうちの娘なのであるが・・。一応夫の血を弾く娘だ。女の子を監視するというのも忍びないため、できれば顕現しない方向で行ってもらいたい。
盗賊一人、犯罪者一人と捨て置けるようなもっと冷たい人であれば。国民の一人一人が自分の子供であるかのように接せず、血が流れても悲しまず、それが自らのせいだと分ったら嘆き悲しまないような人間だったらよかったのだ。
そうでないのであれば、もっと王宮でおとなしく政務に励んでいればよいのだ。積極的に外になんか出ないで、ぬくぬくと周囲の人間に甘やかされていればいい。
だが、そんな彼は彼ではない。
優しく、過ちがあったら取り除き、可能な限り誰にでも公平に接する。活動的で、積極的に王宮の外の様子も見分しようとする。そのくせ傷つきやすい。そのたびに災害は容赦なく襲い人々の嘆きの種になる。
つまり彼が傷つけば傷つくほど破滅に向かっていくわけで、そんな力を持っていると夫が知ったら、何が起こるかなんて恐ろしくて考えたくもない。他の人間にしれても同様で、どんな勢力の誰に悪用されるとも限らない。
人々の平和のために良かれと思って行動することが、結果世界平和の敵になるのだ。邪竜の器として世界の悪意を一身に背負わされそうになったあたしから見てもかわいそうなことこの上ない。
できることといえば、このままずっと穏やかに普通の王様のように振る舞わせながら、監視を行い、何とか傷つかないように守って守って守り抜くしかなかった。つまるところ、このままごとのようなあたしの生活は、すべて彼のためであり、本質的に世話好きな彼のために自堕落な妻を演じるためのものであるのだ。しっかり者の奥さんではいけないわけだ。しっかり者であったら、きっとかれは「俺がいなくても、ルフレ、お前は大丈夫だろう?」などと積極的に身体を張ってしまうだろう。それではいけない。大災害のフルコースで人類のライフがゼロになってしまう。そうではなく、この世界に貴方が物理的に必要な人がいるんですよ、という明確なメッセージを夫に送るために、あたしは「俺が世話をしないとこいつは死んでしまう」というレベルでの駄目人間を装うという極端な行動に走った。「こいつには俺が必要だ」と思わせることができれば、あたしは大金星なのである。幸いにして、どうやらあたしは元が抜けているようで、頑張るのを止めさえすれば夫が違和感無い程度には駄目人間になることができた。誤解をしてほしくないのだが、これは駄目人間の演技であって本当にあたしが心底駄目人間というわけなのではない。多分。
目論んだ通り、彼は私の世話をなんだかんだで楽しそうに焼いてくれる。ただ一つの心配は娘のことだったが、幸いにして真っ直ぐ育ってくれていると思う。ギムレーを倒す途中で出会った、二人目の子供であるという息子のマークはこのままでいくと産めそうにない。本当ごめんなさい、とひたすら心の中で詫びた。
娘と妻の人生設計と、息子の誕生が、夫のためにめちゃくちゃになってしまったが、それでも世界が滅びるよりましだ。明日も明後日もすっと、あたしたちは家族で朝食を共にするのだから。それが歪んでしまったあたしの幸せなのだ。
控え目なノックが扉からする。右手は包帯でぐるぐる巻きだったから、左手で鍵を外す。利き手でないため、普段より時間が掛かってしまい、ノックの音がせっかちに鳴らされた。
ぎい、と静かな音を立てて扉が開かれる。外はもう月が高い。真夜中だ。だから、寝ていたのだという風に、あたしは薄い夜着のまま出る。あの頃より伸びた髪を、わざと乱したまま。そこにいたのは、さっきまで見ていたフード付きマントで身体を隠した夫だった。
なにも知らないといった風に眠たげに目を擦った。
「不用心だぞ。・・・寝てたのか」
「もう、普段ちゃんと寝ろってクロムが言うんじゃない。だから仕方なく寝てたのに」
「すまん。・・・家、入れてもらってもいいか?」
「いいわよ、もちろん」
靴を脱ぎ、彼が家に入る。今朝食事をとったテーブルに誘導し、椅子に座らせる。お茶を入れてやると、彼はコップを両手で握りしめた。じっと見つめていると、彼がふと消えそうな笑みを浮かべて、思わず鳥肌が立った。頼るものがなく、縋り付いてくる彼に興奮していた。あたしは正真正銘のド変態である。
「なにかあったの?元気ないわね。話なら聞くよ?たまにはどーんと甘えちゃいなさいよ」
「・・・その、手はどうしたの?怪我、か・・・?」
「うん。部屋の中で転んで、ちょっと打っちゃった。どんどん腫れてきたから、とりあえず包帯でも巻いておこうと思って」
あっさり言うあたしに呆気にとられた夫は、慌てて手を取り、適当にまかれた包帯を取った。
「凄い青あざだな。・・・痛くないのか?」
「うん思ったより痛くない」
巻きなおしてやろうと、夫が包帯を手に取る。一人でできるよ、とあたしは言うが、一笑された。
「お前は人に包帯を巻くときはそこそこだが、自分には適当にしかやらないじゃないか」
従軍中のことを出され、事実だったので押し黙る。夫が少しだけ笑った。声色が明るくなっていく。
「今日の食事は何を食べたんだ?」
「朝ごはん以外よね?果物を置いて行ってくれたじゃない。それを食べたわ」
「ちゃんと外出て食事をしろ。そうじゃなかったら自炊してくれよ。本当、しょうがないやつだな」
きっともうこれ以上の災害は起こらないだろうということに安心した。内心安堵していると、彼が椅子を立った。彼が一歩あたしに近づく。見知った匂いがひどくうれしくて自ら彼との距離を縮め、胴体に腕を回した。右手を固定されているせいで、うまく動かせないが、そのまま軽く背中を叩く。
「なにがあったのか知らないけど、クロムにはあたしがいるわ」
「・・・引きこもりのくせに」
「うん。だからはやく一緒にご飯をたべたいな?」
「わかった、また、用意してやるから」
彼が苦笑する声が頭上から聞こえた。だが、嬉しそうだ。あたしの身体に回された腕に力が籠る。寝室に行きたいという控え目な彼のお願いに、あたしはノーという選択を持たなかった。



ルフレさん@がんばらない(2012/11/18)

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