天幕から明かりが漏れていた。
翌朝の移動に備えて皆が寝静まる中、休む気配を見せない天幕の住人に呆れながらも、クロムはその入り口を潜る。
クロムの入室に気付いた天幕の住人の少女は叱られることを誤魔化すような、曖昧な笑みをその顔に浮かべた。
テーブル一杯に広げられた地図をクロムから隠そうと、その小さな身体でクロムの目線を遮ろうとする。
体格の違いから、明らかに無駄であろうことは分っているだろうが、それでも諦めない。ルフレはそんな少女だった。
「あ、あのねクロム。もうそろそろ寝ようかな、って思ったところだったの」
不愉快な表情を隠そうとしないクロムをどうにかやり過ごそうと、目の前に広げていた地図を片付けようと小さな手を伸ばす。クロムはその手を掴んだ。
「冷たい手だな。湯あみはしたのか?」
「う、うん。一応」
はあ、とクロムは溜息をついてその手を放す。ルフレは解放された手を守るようにその身体に抱き込んだ。
「・・・何か飲み物を用意するから、それを飲んだらもう今日は休んでくれ」
そのクロムの言葉にルフレの表情が明るくなる。飲み終わるまでの時間ができたと大方解釈したのだろう。飲み物の用意をしに自らの天幕に戻るため、背を向けると、早速ルフレはクロムのことを忘れたかのようにテーブル上の地図に意識を向けてしまう。
クロムはそれに溜息をついた。

「ルフレ、入るぞ」
湯の入ったポットと、小さな巾着袋をぶら下げて、クロムは明かりの漏れる天幕の入り口をくぐった。
入ってすぐにあるテーブルには、先ほどまで広がっていた地図は片付けられている。
だがその代りに、ルフレは最近買い求めたらしい戦術書に没頭していた。
苦笑すると、ルフレは本で顔を隠すようにしながらクロムを伺い見てくる。いたずらが見つかって怒られるのに備えた、そんな瞳だった。
クロムは彼女の手元にあった、中身のなくなって久しいコップを拝借する。巾着を開け、四角く固められた欠片を二、三個中に入れる。欠片と溶かすために少量の湯を入れる。コップを持ち、軽く揺するとすぐに欠片は溶けて湯が白濁した。それを確認すると、濃さを調節するために湯をもう一度注いだ。八分目ほどになったコップをルフレの前に出す。
途中からクロムの手元を見つめていたルフレは少し驚いた顔をしながら、コップを受け取った。
「不満か?」
毒なんか入っていないぞ、と言外に告げると、ルフレは慌てて手を掲げ、首を振った。
「や、違うの。クロムがこういうの手馴れてるって思わなくて。一応、クロムは王子様じゃない」
「王族といえど身の回りのことくらい自分でできるように躾けられてるぞ」
呆れながら言うと、ルフレは堪え切れないと、ばかりに小さく噴き出した。
「ごめんなさい。それもそうね。いわゆる『王子様』なら自分で自警団なんて作らないものね。・・・ありがとう。いただきます」
そういってルフレはコップの取っ手に指をひっかけて口元に持っていく。甘い匂いが鼻孔をくすぐったのか、少し表情を緩めた。
「酒粕に砂糖を加えて固めたものらしい。ソンシンの国でよく飲まれているものだとか。滋養にいいとかで、リズがこの間買ってきたんだ」
説明を聞きながら、ルフレは一口、味わうように口に含む。ゆっくり飲み込むと、美味しい、と顔を綻ばせた。そのまま二口、三口と口に含む。
中身が大分少なくなったところで、ルフレはテーブルの上に置いておいた本に手を伸ばした。彼女の手が伸びるより早く、クロムがその本を手に取った。
「あ、クロム。ありがとう」
クロムが差し出した本を手に取ろうとルフレが手を伸ばすが、寸でのところで彼女の指は空を掴む。本は何故かルフレの指のほんのわずか上に移動していたのだ。
頭に浮かんだ疑問符をそのままに、ルフレはもう一度身を乗り出して本を取り戻そうとする。が、またしても彼女が掴んだ、と思った瞬間、するりとそれはすり抜けて上へ行ってしまうのだ。
「・・・クロム」
ルフレが立ち上がったのを見ると、クロムもすぐに立ち上がる。じとりと恨めしそうな目を向けられて、思わずにんまりと、あまり質の良くない笑みが顔に浮かんでしまった。
獣の目の前に餌をちらつかせるように、本をルフレの目の前にかざし、ひらひらと左右に揺する。むっとしながらも、ルフレはそれを奪おうと、果敢にもクロムに挑む。右に手を伸ばすと獲物は左へ、左に手を伸ばすとさらに上へ。距離を稼ごうと身体を詰める。クロムの服を掴み、爪先立ちをして腕を伸ばした。だが、はるか上空にある獲物には全く手が届かない。
「・・・」
手に持ったままだったコップをテーブルの上に置くと、ルフレはクロムの肩に手を掛け、そこを支点に飛び上がった。だが、それでも本には届かない。意地になったルフレはクロムの背中に回ると、両肩に手を掛けしがみ付く。全体重をクロムの背中にかけてやるが、それでも鍛えているらしい筋肉質の身体はびくともしなかった。背中越しに背後を見たクロムが明らかに喜色を浮かべているのを知って、ルフレは唇を引き結ぶ。ともあれ、無駄を知ってルフレはおとなしく地面に足を下した。
「諦めて、もう休むんだな」
再びルフレの頭上に本が掲げられたが、手を伸ばせば先ほどの醜態をさらすだけだろう。ルフレはむ、と不満気な表情を隠さずにむっつりとクロムを睨みあげた。視線を少しずらすと、さきほどまで座っていた椅子が目に入る。よし、とルフレは決めるとすぐに椅子を引きずりクロムの前に置いた。
クロム本人が逃げぬよう片方の手で彼の服を掴み、もう片方の手で、すぐ隣にある机に手を掛け座面に足を乗せる。この椅子は年季が入っているせいか、座るだけならまだしも上に立つとなると少し不安定なのだ。
「おい、ルフレ、危ないぞ」
クロムが若干焦ったような声を出す。と同時にやはり無理があったらしい椅子は、バランスを崩し、ルフレは背中から倒れこんだ。クロムは慌ててルフレの身体を抱え込もうとするが、身体が倒れていくほうが早くて追いつかなかった。彼女の掌がしっかりと服を掴んだままだったので、ルフレに覆いかぶさるようにして倒れこんでしまう。下敷きにしてしまうと、慌てて何かにすがろうとするが、手にあたったのはルフレが先ほどテーブルの上に置いたコップで、もちろんそれは支えにはならず、あまつさえクロムの手はそれを払い除けてしまう恰好になった。ほんの少し残った中身が、ルフレに降りかかった。
「ルフレ、大丈夫か?」
いたた、と背中をしたたかに打った彼女が呻く。
「うー、コップに顎を攻撃されたわ・・」
すまない、と慌てて謝ろうとして、クロムは腕の力で上半身を起こす。
「中身が残ってたのね。顔にかかってべとべとする。やっぱり椅子作戦は無理があったわね・・。テーブルにしたほうがよかったかな。クロムは平気?ごめんね、手を離さなかったから、巻き込んじゃって」
そういってルフレが口元を、白濁を指先で拭い、そのまま舐めた。引き締まった口元から覗く妙に赤い舌が目についた。上から圧し掛かっているためか、普段は彼女のゆったりとした上着に覆われている素肌がほんの少しだけ見える。肌は白いほうなのだが、その奥の肌のほうがもっと白く、毒々しいほどだが目が離せない。
「あー、ちょっと服にもついちゃった。明日洗濯しなきゃ。クロムのほうにまで飛び散ってないみたいね。よかった」
固まるクロムを知ってか知らずか、ルフレは一人しゃべり続ける。反応がないことにようやく気付いたのか、はたまたいつまでもクロムが退かないことに焦れたのか、ルフレは上目使いで覗き込んだ。
「クロム?」
腕を叩かれて、ようやく我に返ったクロムは素っ頓狂な声を上げながらルフレの上から飛び起きる。
「クロム?・・どしたの?」
とルフレはこびりついた白濁をそのままに首を傾げる。首元が少しはだけ、柔らかそうな鎖骨が見えた。
クロムは思わず口元を覆い、天を仰いだ。鼻の奥が、妙に熱い。
「・・・すまなかった」
「本のこと?あたしこそ悪かったわ。クロムは心配してくれていたのに、休まなくて。顔を洗ったらもう寝るから、心配しないで。今日はありがとう」
微笑む彼女を見ていられなくて、クロムは二、三言呻いて天幕を出て行こうとする。これ以上はまずいと内なる警告が鳴り響く。かつてないほど激しい。心臓の鼓動がうるさいほどだ。
立ち去ろうとするクロムに何か気づいたらしいルフレは、それを押しとどめる。
「クロム鼻血出てない?え、やだ、大丈夫??さっき倒れたときに打っちゃったのね。・・・ごめんなさい。とにかく血を拭わせて?ね?」
腕に縋り付き上目使いをしながら必死に腕を伸ばす、口元を汚したままのルフレに、クロムはもう片方の鼻の奥も熱くなってしまっていることに気が付いてしまい、思わずだれかに助けを願ってしまった。



クロムさんがむっつりの話(2012/11/18)

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