「光樹、赤司君は今度いつ来るの?」
目玉焼きの香ばしい香りをさせたフライパンのお守をしながら、寝起きのパジャマのままだらしなく食卓についた俺に母親は声をかけた。
眠気を振り払えぬまま、うーだとかあーだとか曖昧な返事を返す。当然お気に召す返事ではなかったらしく、母親はフライ返しをその手に持ったまま、むくれるような表情を見せる。年甲斐もなく、少々少女じみたその仕草に、辟易して、すでに食卓についていた父親に助けを求めるが、小さく母親に視線を送ると、関わりたくないとばかりに新聞を広げ、顔を隠してしまった。
「あー向こうは普段京都なんだから、東京来たら実家に帰るからもう来ないと思うよ」
香ばしい匂いがし出したフライパンの中身を器用に皿に移しながら、母親が返す。
「あら、そうなの。残念。綺麗な子だから、お母さん目の保養だったんだけどなぁ」
盛り付けの終わった皿を手渡される。料理をしながらよくしゃべれるものだ、と俺は半ば関心しながら礼を言って受け取った。
「お兄ちゃん、何か飲む?お茶以外なら自分で淹れてね」
という声が妹からかかり、特に希望のなかった俺は同じもので良い旨を伝えるとすぐに緑茶の入ったマグカップが手渡される。こちらもまた同じように礼を言って受け取ると、妹はその場で立ちながら会話に参加した。
「それにしてもびっくりしたよ、お兄ちゃんが赤司先輩連れてきたときは」
「ああ、そういやお前帝光かぁ」
やっぱり赤司って有名なの?と問うと、妹は喰らい付くようにテーブルに手を付いた。
「そりゃもう!文武両道衆目美麗あの冷徹な眼差しに踏みにじられたいって女子も男子も!本当に親衛隊があったくらいなんだもん。校内じゃ知らない人いなかったよ。バレンタインデーのときとかすごかったもん、段ボール三個くらいチョコレートもらってたよ」
中学の頃の若干幼い赤司を想像する。膨大な量のチョコレートの前で途方に暮れている姿が思い浮かび、笑いを抑えきれない。あの冷徹そうにも見える視線が困る所をぜひお目にしたいものだ。
「へぇ、赤司君すごいわねぇ。光樹もちょっとくらいおこぼれに預かってもらいたいものねぇ」
「お兄ちゃんじゃ無理無理!だってお兄ちゃんだもん!」
母親のからかいに妹が相槌を打つ。お前ら俺に対する態度ちょっと酷くない、と小言を漏らすと、
「だってしょうがないじゃん、お兄ちゃんと赤司先輩だよ?最初家に連れてきたとき何があったのかと思ったもん」
「あーあの時ね、あの時!我が息子ながら、月とすっぽんって言葉が真っ先に浮かんじゃった」
ちなみに『すっぽん』は言わずもがな俺自身のことを指す。心のどこかで自覚しているそれを、改めて指摘しなかったのはせめてものプライドを守りたかったからだ。
「それもあるけど」と妹はコップを置いた。「なんか、噂に聞いてた赤司先輩と違うなって。私は学校じゃ接点なかったけどさ、なんかずーっとすまし顔っていうか、ツンツンしてる感じっていうか。まあとにかく、お兄ちゃんみたいなタイプ超嫌いそうだったから」
「もう、人を外見で判断するのは良くないわよ」
母親が妹を注意する。それに妹はあははと笑い声を上げると、コップを流しに置き、荷物を取り登校の準備を始めた。なんでも冬期講習が学校であるらしい。もちろん成績優秀者に対するものだ。高校こそもちろん受験したが、中学受験は全く興味がなかった俺にとって、私立中の偏差値などまったくわからず、上から数えたほうが早いくらいの帝光中学の偏差値を知った時はかなり驚いた。その中でも上位に位置する妹の努力が誇らしい。
俺は、準備する妹に昨日買ったチョコレート菓子を渡す。
「疲れたときは甘いものだっていうし、頑張れよー」
「お兄ちゃんありがと」
受け取ると鞄に仕舞い込む。時計の時間を確かめると、妹は慌ただしく玄関に向かう。なんとなくその背中を追って、玄関で準備する間、鞄を持ってやる。靴を履き追え、俺から鞄を受け取ると、妹は大きな声で行ってきますと告げ、走り出した。どうやら時間が危ういらしい。
俺もそろそろ出かけるか、と玄関にある卓上時計を確かめ二階の自室に向かった。



それにしても本当びっくりだ、お兄ちゃんいつの間にあんな美人ひっかけたんだろう。
降旗の妹は滑り込みで間に合った電車に揺られながら、学校に向かう。自宅最寄駅から学校の最寄駅までは電車で三十分ほどある。何か見ておくか、と鞄から目についた英単語帳を引っ張り出す。とその時、無造作に押し込んだ兄からもらったお菓子が鞄から転げ落ちた。
床に落ちたそれを隣の女性が拾ってくれた。謝罪を言って受け取ると、じっとそのお菓子のパッケージを見る。
別に変わったところのない、極々一般的なチョコレート菓子だ。これをくれた兄を思い出す。赤いパッケージ。兄が連れてきた、もう卒業した赤い髪をした先輩の姿を思い出す。

兄が赤司を連れてきたのは、兄も参加していた高校の部活の大会の後だった。
兄から話を聞く限り、赤司はもともと大会後、進学先の京都に戻るメンバーと別れて東京の実家に戻る予定だったらしい。ただ、帰省はしないものと勘違いしていた赤司の両親は、海外旅行に出かけてしまい、その際屋敷に残っていた使用人にも全員休暇を出してしまったらしい。学校の一団は京都にすでに戻ってしまった後で、会場で今晩の宿について考えていた赤司を忘れ物を取りに偶然発見した兄が、それなら、ということで家に呼んだらしい。
現代日本で使用人を雇う家に住むような人間を一般庶民の家に誘う兄の能天気さに溜息を隠せない。赤司に失礼なのではないかとも思ったが、様子を見る限り物珍しそうにそわそわとしていたが、不満は特に感じていないようで安心した。
ちなみに赤司は翌日新幹線のチケットを取り、京都に戻っていった。というか兄が赤司を連れてきたときは夜中とは言っても終電にはまだ早い時間のはずだったのだから、大人しく新幹線で京都に戻ればよかったのにとひとり不満を漏らした。

入学したときの赤司のもっぱらの評判は、全国的にも強豪のバスケットボール部の部長で、女子人気も高いがとても怖くて近寄りがたいというものだった。バスケットボール部三年には芸能活動も行っている本物の芸能人もいたのだから、人気自体はそちらの生徒のほうが高かったようだ。ただ、だからと言って赤司の人気がなかったわけではなく、気安さがなかった分、カリスマ的な熱狂的な人間が多かったらしい。
勿論、彼女の友人の中でも赤司のファンになる人間も多かった。彼が卒業した今は落ち着いてはいるが、在学中のころはほぼ毎日のように赤司の情報を聞かされ辟易としていた。
ただ、彼女自身は赤司のふとした言動や冷たい視線に、怖さを覚えていたのだ。
家族に今朝話した、赤司のバレンタインの話は故意に一部伏せて話している。
バレンタインデーに彼が段ボール三箱に及ぶチョコレートを貰っていたのは間違いない。直接渡されているのをみたのも何度もある。当日の朝の彼のロッカー、下駄箱、あふれんばかりだったというのは事実だ。
だが、彼はそれをすべて処分したのだ。あの日の焼却炉の前での会話を今でも覚えている。
あの、背筋が凍るほどの冷たい目を、今でも。

『赤司っちー、いいんすか?折角もらったんだし、中身だけでも紫原っちにでもあげれば』
『別に構わない。面倒だからな。敦は敦でもらっているようだし』
『赤司っちがそういうならいいんすけど』

兄とは正反対だ。そもそも兄はチョコレートなど、家族からしかもらったことはないだろうが。
クラスメイトからもらおうものなら、羽が生えたかのように喜ぶ姿がありありと思い浮かぶ。
不特定多数から好意を押し付けられるのは、なるほど赤司にとっては困るかも知れない。だが、あのように面倒だと切り捨てる行為はどうなのだろうと思う。彼女はとにかく赤司が理解できなかった。怖いとすら感じている。通称『キセキの世代』と呼ばれる彼らの中でも、最も。

だがそれだけにあの日の赤司の様子に驚きを隠せなかった。
最初こそ兄も気後れした風であったが、最終的にはある程度の距離感をつかんだようで、少なくとも表面上は普通の会話を赤司と交わすようになっていた。赤司自身も楽しそうな様子を隠さなかった。在学中に彼の表情が、不快を表す以外で動いたところなど、見かけたことはなかったというのに。
赤司の周りには、常に同じバスケットボール部員、部員らの中でも『キセキの世代』と称される彼らしかいなかった。赤司がしゃべる相手も彼らだけで、少なくとも兄のような生徒を相手にしているところは見たことがない。たまたま見なかっただけなのかもしれないが、赤司ファンの生徒も同じようなことを言っているので間違いないだろう。
なのになぜ、今になって兄に。
彼女は疑問を隠せない。兄と赤司が交流することで、兄が傷つくことにならないかそれが心配だった。



鞄に入れたままの携帯に、メールが着信したことに気付いた。どこか逸る気持ちを隠せず、その場で立ち止り、急いで携帯を鞄から取り出す。隣を歩く実渕が怪訝な顔をして急に立ち止った赤司を見た。
「征ちゃん?」
「ああ、すまない。玲央、急ぐなら先に行って構わない」
「何?急用?」
「いや違う。東京の友人からメールだ」
赤司の言葉に実渕は目を丸くする。赤司がこうしてすぐにメールに返信しようとしている姿を見るのは初めてだったのだ。普段の彼は、あくまで自分が都合の良い時にしか返信を返さない。つまり、何かの作業途中、歩行途中にわざわざ立ち止って返信を返すなんてことはめったにない。音声着信ですら放置することがあるくらいなのだから。
実渕が驚きを隠せずにいるのを知ってか知らずか、赤司は二つ折りの携帯を開く。液晶画面に着信を告げるそれは差出人の名前も同時に示していた。そこに現れた文字に赤司は笑みが浮かぶのを止められない。
『降旗 光樹』
ウィンターカップの後、東京の実家にそのまま戻る予定だった赤司が不手際で難儀していたところに一晩の宿を提供してくれた、いわば恩人だった。それから彼とのなんとなくの交流が続いている。
彼の友人に鋏を向けるなどと一歩間違えれば通報されかねない最悪な印象だったため、彼は最初こそ赤司にたいして怖気づいていたようなのだが、しばらくすると彼なりの距離がつかめてきたのか、必要以上に気後れしなくなったようだった。今はこうしてたまにメールをやり取りする仲になっている。彼はおそらく、距離を掴むのが非常に上手いのだ。彼とのやり取りは中学時代の仲間とのやり取りと違う安心感を赤司に与えていた。だからだろう、彼に促されて素直に火神に謝罪ができたのは。立ち会った黒子は顎が外れんばかりに驚いた後、体調不良を心配されたが。
確かめたメールの本文はこうだった。
『スマップのファンだった母さんが今じゃすっかり赤司ファンだよ。よかったら次東京に来たとき遊ばない?』
あの温かな家族の様子を思いだし、赤司は口元の笑みを殺しきれない。
光栄だ、次の帰省の際にはぜひ寄らせてもらう。
そう簡潔に返信する。携帯を元通り鞄にしまうと、再び歩き出した。
春休みは東京には戻らない予定だったが、二、三日程度なら帰省もいいだろう。彼は映画など好むだろうか。それとももっと外に出て遊ぶほうが楽しいだろうか。テーマパークなどはどうだろう。動物園や水族館は。公園でバスケをするのもいい。赤司の自宅に招待するのはどうだろうか。彼の自宅によらせてもらうときの手土産は何がいいだろう。それとも。
あれこれ赤司は考え、彼に、降旗に相談しようと思いつく。それは酷く楽しそうなことに思え、なぜか感じた高揚感に心臓が高鳴った。試合の緊張感とも違うが、今は赤司にはうまく表現することができない。
数メートル先行した赤司は、立ち止ったままの実渕を訝しげに振り返った。
「行かないのか」
ややあって実渕は声に反応し、慌てて距離を詰める。
どことなく嬉しそうな赤司の様子に、実渕は見守るような気分になる。気付いた赤司が視線を返した。訝しげな上目使いに、実渕は「今度お友達紹介してね」と苦笑した。



初恋はまだ遠く(2013/02/24)

妹ちゃんのほうが出来が良くてブラコンシスコン気味なのは俺の妹がこんなにかわいいわけがないの見すぎなのです。。

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