雑誌モデルの仕事を終え、黄瀬が腕時計を確認すると、短針が文字盤の「三」を少し過ぎたところだった。
夕方には程遠いこの時間、スタッフやモデルたちの誘いを丁重に断ると、黄瀬はここを訪れた時から目を付けていた目的地へと足を滑らせる。三月ももう下旬に差し掛かったこの時期にしては、少しだけ冷たい空気が、急ぐ黄瀬の頬を叩いた。
目的地は、この都内有数の広大な敷地を誇る公園の片隅に併設されたバスケゴールだ。すぐそばに木々が迫る、多目的広場の片隅にポツンと設けられた二基のゴールは、周囲にラインもコートも何もないが、それだけに利用者もあまり多くなく、単に遊ぶのならばちょうど良い。しかも公園はよく出演している雑誌の撮影場所に使われているため、黄瀬はここを訪れる度に一汗流してから帰ることを常としていた。しかし、その黄瀬の予定を狂わせたのは、めったに利用者の居ないはずのバスケゴールを揺らすボールの音だった。
先約者は黄瀬に背中を向けていたために、顔を見ることはできなかったが、その骨ばった背中から同世代の少年だと思われた。晒された首筋に汗が流れて首筋に伸びかけた色素の薄い髪が数束張り付いている。シュートを成功させて小さく上がる歓声が少年のものだったために間違いないだろう。彼は二基のゴールのうち、一基に向けて持てるすべての集中力を使っているかのようだった。黄瀬が後ろ姿を見守り始めてから、すでに三本シュートを成功させている。もう十分だと思ったのか、彼はゴールに目線を向けたまま、三歩後ろ歩きをする。土の地面に爪先で、スニーカーが汚れることも厭わず線を引くと、そのラインに足を合わせた。その場で数度ドリブルをした。掌が吸い付くようなドリブルは、しっかりとした基礎訓練を行っている証左だ。超高校級と称される黄瀬の眼から見ても、彼が今まで行ってその身体に染み付かせてきた基礎の成果が見える。しかし、少し離れた場所からのシュートは苦手なようで、彼は外してしまった。ゴール板にぶつかったボールは、彼の手元には帰って来ずに、むしろ黄瀬の足元に転がって来た。ボールを追いかけた少年が後ろを振り向く。その時初めて彼が黄瀬に気付く。当然の帰結だったのだが、盗み見していた恰好の黄瀬は、後ろめたさに焦りを覚えた。振り向いた少年、やはり同じ年頃の少年であった彼は、その猫を思わせる三白眼を大きく見開いた。
「黄瀬」
思わず零れ落ちた、といった体の声に、彼はその口元を自らの掌で抑える。ごめん、と黄瀬に謝罪すると、
「黄瀬、君…だよね?」
と敬称を付けて呼び直した。最後に付けられた疑問符に、彼生来の小心が透けて見える。
そのおずおずと上目使いで見上げられる瞳に、黄瀬の記憶が刺激された。どこか既視感を感じているが、彼の正体を上手く思い出せない。
「ああ、いいっスよ。呼び捨てで。えーと」
同じ学校の生徒だろうか、とも思うが、黄瀬の通う学校は隣県の神奈川だ。近所でもない東京都の公園には滅多な用事で来ることはないだろう。
喉元に確かに引っかかっている記憶に、黄瀬は考え込んでいると、苦笑した少年から助け舟が出された。
「俺、誠凛バスケ部の…」
「あっウィンターカップの誠凛12番君っスか!」
黄瀬は声を上げた。三か月前のウィンターカップ準決勝で、相手校の誠凛5番、伊月に代わり出場した12番のユニフォーム姿と、目の前の少年の姿が重なる。
彼が途中交代によって出場した試合。あのまま彼が出場しなければ、勝利は自分たちのものであったのだ。最終的な敗因は、ゴール板を使った火神の無茶苦茶なパスを受けた黒子のブザービートである。しかし黄瀬が最初に掴んだ流れを見事に断ち切ったのは、目の前の誠凛12番のユニフォームを着込んだ彼だった。因縁の相手に思いもよらぬところで再会し、訳の分からぬ高揚感を感じ、破顔する。
「や、ウィンターカップ以来っスね!元気だったっスか?次はインハイっスかね?!負けないっスからね!…って、ええと」
燥いだ声を出したはいいが、肝心の彼の名前がわからず言い澱む。それを受けて、私服姿の誠凛12番は苦笑した。
「降旗だよ。黄瀬君久しぶり」
「だから、いいっすよ別に。呼び捨てで。たしか黒子っちのことは呼び捨てで呼んでたでしょ?」
「じゃあ、お言葉に甘えて。俺のことも呼び捨てでいいよ、黄瀬」
そう言って降旗は黄瀬が抱えていたエナメルバッグに気付き、視線を送る。
「あ、黄瀬もバスケしに?…てか、さっき俺がシュート外したの見てた?」
最初の質問に頷き、次の質問にもしぶしぶ頷いた。すると降旗はうわぁと声を上げる。
「わ、見てたのかよ!恥ずかしい!…くそ、下手だと笑うなら笑え」
ぶつくさと唇を尖らせながら降旗はいじけた。慌てて黄瀬は両手を顔の前で振って否定する。
昔の自分、そう一年も昔の自分であれば、彼を下手くそと嘲笑っただろう。しかしあれから数度にわたる敗北と、決して才能だけがすべてではないと知った今、目の前で努力を続ける彼を笑うことなんてできやしなかった。
「すんませんっス、降旗っち!や、ワザとじゃないんスよ!本当。偶然というか物の弾みというか…。すんませんっス」
言い繕うことを早々とあきらめ、黄瀬は素直に謝罪する。すると降旗は、そっぽを向けていた瞳にもう一度黄瀬の姿を写す。髪の毛と同じく色素の薄い黒目に自分の姿が写っているのが見えて、黄瀬は思わず息を呑んだ。降旗が思わず吹き出す。唐突な彼の笑いに戸惑っていると、降旗はなおも漏れる笑いを堪えて黄瀬に話しかけた。
「ごめん、黄瀬。…なんかお前、思ってたよりずっと親しみやすいっていうか」
「ええっ、降旗っちヒドイ!俺のこと生意気とか取っ付きにくいとか思ってたんスか?!親しみやすさで評判のみんなの黄瀬涼太っスのに?!」
言い募れば言い募るほど、降旗の笑いが濃くなり、しまいには彼は腹を抑えて蹲った。黄瀬も慌ててその場にしゃがみ込む。
「ふりはたっちぃ」
じいっと見据える、湿り切った視線を降旗に向けた。それでも彼の笑いは止まらない。漸く飲み込むようにして笑いを収めた彼が、しゃがんだままの姿勢で地面に落としたボールを手繰り寄せた。手慰みに弄っている。
「だってお前が最初に誠凛来たとき」
「ああああれはモノノハズミってやつっス忘れてくださいいいいいい」
「『黒子っちください!』…正直あれはなかなかに強烈だった」
入学仕立ての頃、他校に一人で自信満々に乗り込み、他校の人間を馬鹿にし、おまけに黒子離れをしていない様子をありありと表現した台詞を吐いた。しかもその後すぐに行われた練習試合で僅差ではあったが馬鹿に仕切った人間たちに負けた。目の前の彼ら、誠凛高校バスケ部に。思い出し、懐かしむには近すぎる過去はまだその傷口が生々しすぎる。いわゆる『黒歴史』を象徴する台詞を言われ、思わず黄瀬は降旗を黙らせようと肩を掴み揺さぶった。お互いしゃがんでいるためか、不安定な姿勢を降旗はしかし楽しんでいるようで、声を立てて笑っている。
「降旗っちだってウチとの試合ん時、『おちゅちゅけ』とかめっちゃ噛みっ噛みだったじゃないっスかー!」
「うわぁそれ忘れろ俺にとっては準決でいきなり初出場だったんだぞ緊張したんだよお前らと一緒にするんじゃねー!」
「『火神ストップ!!おちつっ、おつちつ…、おちゅちゅけ!!』」
「うわぁあ声コピーすんな似てるのがまた腹立たしい!」
焦りか、急に降旗は立ち上がろうとする。しかしその肩はしゃがんだ黄瀬が掴んでいるので、降旗はバランスを崩した。尻餅を付く。
後ろに倒れこんだ降旗に引きずられて、黄瀬もバランスを崩した。彼を押しつぶしそうになり、咄嗟に膝を付く。彼の後ろの地面に手を付いた。
「わ、黄瀬ごめん」
降旗の謝罪に続き、黄瀬も謝ろうとするが、その前に降旗が黄瀬の後ろを見て何かに気付いたらしく、「あ」と声を漏らした。黄瀬は彼の漏らした声が気になり後ろを振り向こうとする。が、振り向くのと、後ろから肩をやたらと力の籠った掌で鷲掴みされたのは、ほぼ同時のことだった。


「赤司っち?!」
「赤司」
京都にいるはずの赤司に黄瀬が驚きの声を上げる一方、降旗は目の前に突如現れた赤司を平然と呼びかけた。
驚愕がまったく見られない、むしろそこに赤司がいるのは当然のことではないか、という体で受け入れる降旗に、黄瀬は驚愕の眼を向けた。
「いたたたた」
すると途端に強くなる赤司の握力に、黄瀬は悲鳴を上げる。
「赤司」
降旗が赤司を呼ぶ。すると赤司は黄瀬のことなどどうでもいいとばかりに、黄瀬の身体を押しのけた。黄瀬は慌てて立ち上がり、赤司に降旗の前を譲る。赤司は当然のように降旗の手首をつかみ、抱き起さんばかりに立ちあがらせた。
「あ、ごめんごめん。起こしてくれてありがと」
へらり、と締まりのない笑顔を降旗は向ける。それを一度見た後、赤司は身長差のため自らの上にある黄瀬の顔を見据える。
敵視されるように睨みあげる視線に、思わず黄瀬は一歩後ずさる。不意に赤司の左手が自らのズボンの後ろポケットを漁るのが見えた。
ウィンターカップの開会式前、赤司が火神に鋏で切りつけたことがあった。あれは結局、火神に怪我がほとんどなかったことと、彼の驚異的な大らかさによって大事にはならなかった。あの時の赤司は、火神が確実にそれを避けると知っていて、それでも戯れのように鋏を向けたようだったが、黄瀬は今、それと似た空気を赤司に感じている。いや、勘違いでなければ、あの時は確かになかった不穏な気配を感じている。まるで敵のように見据えられ、そしてこれがいわゆる『殺気』なのだと黄瀬は唐突に理解した。
なぜ殺意を向けられるのかは正直全くと言っていいほど分らなかったが、とりあえずこの場を切り抜けないと、決意を強く固めていた。しかし黄瀬にはその方法が見つけられない。焦燥感と共に色々な可能性を思い浮かべるが、どう頑張ってもバットエンドのルートしかみつからない。
そんな中、周囲を殺気を漲らせた敵に囲まれ絶体絶命の大ピンチ、蛇に睨まれた蛙状態の黄瀬と、蛇の赤司の間に割って入るのは、のんびりとしたその場に全くそぐわない、降旗の声だった。
「赤司、飲み物ありがと」
そしてあろうことか、降旗は、赤司がぶら下げていたコンビニ袋に手を掛けたのだ。
機嫌最悪な赤司っちの持ち物に手をかけるなんて命知らずな、と黄瀬が自らのピンチを忘れ、蛇の目の前に現れた哀れな子羊をハラハラと見守っていると、赤司は全身に纏わりつかせていた雰囲気を一変させる。え、と黄瀬は口をぽかんと開けた。
「…君の好みがわからなかったから、適当に用意したよ」
そこにいたのは只の紳士だった。
「ポカリとアクエリ、他にもただの水やお茶なんかもある。ジュースが良かったかい?」
「あ、じゃあポカリ頂戴」
ああ、と言って赤司はビニール袋から500mlの青いペットボトルを手渡した。黄瀬が初めて見る、労わるような優しげな瞳を赤司は向けているが、降旗はそれを平然と受け流していた。
花を咲かせたという表現に似つかわしい赤司のはにかんだ表情と、それを受けてただニコニコしているだけの降旗に、黄瀬は頭を抱えた。
俺の知ってる赤司っちじゃない!
黄瀬の心の叫びを知ってか知らずか、一息ついた降旗は黄瀬にしゃべりかけた。
「あ、黄瀬」
と同時に赤司の冷ややかな視線が向けられる。降旗の全く人畜無害な笑顔とのギャップが著しい。
「良かったら俺たちと一緒にバスケしていかない?赤司もいるし」
降旗の誘いに、黄瀬は思わず赤司を見る。中学時代の性なのか、彼の機嫌を損ねないようにする生き延びるための知恵なのかはわからなかった。
「涼太」
「はいっス!」
思わず腕を伸ばし身体にぴったりと付け、飛び上がるように背筋を伸ばした。
「忙しいのだろう?」
「はいっス!」
にやりと笑って告げられる赤司の言葉に、再び肯定の返事をただ叫ぶ。赤司の言葉は疑問符だったが、真実黄瀬に尋ねているわけではない。あれは肯定を返すのを前提とした質問なのだ。赤司の意図通りの回答だったのだろう。彼は満足そうな笑みを浮かべた。黄瀬の命はつながったのである。
「…光樹、涼太は忙しいそうだ。仕方のないことだけど」
穏やかな笑みを浮かべて赤司が降旗に向かう。黄瀬の背筋にうすら寒いものが這う。
どうやら赤司は降旗と二人だけの時間に部外者を割り込ませることを好まないようだ。降旗がそれに気づいているのかはわからないが。
降旗もそれに気づかないと赤司から敵意を向けられることになりはしないか、それが黄瀬の目下の心配事だ。別にこれから降旗とはいつでも会える。黄瀬はまた今度、彼を訪ねればいいのだ。とりあえずここは赤司っちの言うことを聞いて降旗っち!
「そっかー残念。黄瀬と赤司のプレイ間近で見れると思ったのになぁ。ごめんね黄瀬、引き止めちゃって」
残念そうに降旗は言う。それを一瞥するとすぐに、赤司は黄瀬の腕を掴んだ。
「……涼太」
「はいっス!一時間ほどなら平気っスからぁ!!」
半泣きになりながら叫ぶ黄瀬を知ってか知らずか、降旗は喜びに顔を綻ばせた。
「やった、キセキの世代同士のマッチアップだ」
降旗は足元のボールを手に取り二人から距離を取る。どうやら彼は二対一のミニゲームを始めるつもりらしい。
黄瀬は慌てて肩から下げたままだった鞄をゴールポストの傍に置きに行く。彼らの荷物も、そこにまとめてあった。
そうして黄瀬は疑問を感じた。組み合わせはどうするつもりなのだろうと。それは一見他愛もない疑問のようではあったが。
「黄瀬は俺の助っ人ねー。足引っ張ったらごめんな」
恐らく黄瀬が来るまで、彼らは一対一で対戦していたのだろう。降旗の実力では赤司には到底かなわないだろうから、きっと赤司は降旗を指導するような恰好で、じゃれ合いのような対戦を繰り広げていたのだろう。見たわけではないが、黄瀬はそう確信する。
そうして降旗の中ではそれがまだ続いているのだ。赤司はあくまで先生というか、対戦相手なのだろう。
あの赤司征十郎を戦う相手と定義している降旗の心胆に舌を巻くが、しかし。
黄瀬はちらりと赤司を見た。白磁を思わせる肌は相変わらず作り物めいて、いっそ美しい。口元には穏やかな笑みが浮かんでいて、傍目から見ると対戦を心待ちにするような好戦的な笑みにしか見えない。
だが目が、笑っていない。それだけで彼の内心の壮絶なまでの苛立ちを、黄瀬は知った。
(降旗っちお願いチーム分け考え直して!)
声に出ない叫びは降旗には伝わらない。無情にも渡された彼からのパスを赤司が見る。向けられたねめつけるような赤司の視線に、黄瀬ができることはやけくそで特攻することだけだった。



伝わらない心の声(2013/03/28)

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