土方がその少年、新八少年と出会ったのは全くの偶然だった。
夜間巡回を終えて、屯所に戻ろうか、としていた時だった。咲き乱れる桜をぼんやり見上げている少年を見つけたのは。
「散歩には少し遅すぎるんじゃないか?」
突然かけられた声に驚いたのだろう、少年はびくりと肩を震わせ、そして振り返る。恐ろしげな、こわばった表情が浮かんでいたが、見知った土方の顔に安心したのだろう、その表情が少しだけゆるんだ。
「見回りですか。ご苦労さまです」
「もう終わった。つうことでお前ももう帰れ」
はい、と頷く声は素直だが、その身体は反対に全く動く気配がなかった。その様子を見た土方は小さな舌打ちをすると、上着の内側にしまってある煙草を取り出し、一本咥え、火を灯した。
「歩き煙草は禁止だったはずですけど」
「残念ながら俺は今立ち止まってる」
「灰皿はここにありませんよ」
「残念ながら俺はこんなものを携帯している」
上着のポケットから携帯灰皿を取り出した。電灯の明かりに照らしてやると、少年はとりあえず頷いた。納得はし切れていないのだろう。不承不承といった体だった。
「それで、お前はなんでこんな夜中に花見してんだ」
「僕だってずっと見てたわけじゃないですよ。ほんの五分くらいです」
「まァ、見ちゃいけねぇなんていってねぇが」
少年は小さな笑い声を上げた。そしてまっすぐ指をさした。桜を。
「きれいですよね」



「きれいですね」
そう言って女は笑った。土方はそれになんという反応を返せばいいのか分からずに、ただ、黙って俯いてしまった。まぁ、と笑う女の表情を見ていられなかった。ただ、女のことが愛おしかった。
「十四郎さん、見てください。そーちゃんたら」
小さな体の総悟が近藤の背中によじ登り、桜の枝に手を伸ばしている。近藤はそれを邪魔するように身体を左右に揺する。慌てて総悟は近藤の頭に両手でしがみ付いた。落ちそうになっている弟の姿が面白いのか、女は軽やかな笑い声を立てていた。
「本当に、仲が良くて、少しだけ妬けてしまいます」
寂しそうなその声は、決して女で、しかも病弱な身である自分に苛立っているものではなかった。ただ、あの、彼らの輪の中には決して入れないだろうという、確信めいた想いから発せられたものだった。どちらかと言うと、自らもあの輪の中に属するものなのだろう。決して彼女の寂しさを減らしてやることも分け合うこともできそうにない。
でも、その華奢な肩を支えてやることならばできるのではないか。この、細い手に、自らの手を重ねることを許されるころには。



「土方さんてば」
やっと目があったと、少年はほっとした息をつく。土方はぼんやりしていた自分にようやく気が付き、誤魔化そうと手に持ったままの煙草を口元に運ぼうとする。だが、挟んだ人差し指と中指が異様に熱かった。
もう少しで火傷をする、というほどに短くなっていた煙草を、思わず地面へと投げ捨てた。それをいつものように足で踏み消そうとするが、一般人の手前、それは堪え、携帯灰皿を取り出した。限界まで短くなった吸いがらをつまみ上げて、灰皿に押し付けていると、隣りの少年が腹を押さえるようにして小さく笑っている。大丈夫ですか、と笑いを押し殺した声に、おざなりな返事を返すと土方は背を向けた。
「早く帰ってさっさと寝ろ」
「あ、ちょっと待ってください」
少年は近く似合った水飲み場へと走る。持っていたハンカチを濡らして固く絞った。それを持って再び土方の手を取り、ハンカチを押しつけた。
「余計なことかもしれませんけど」
と少年は笑う。



血を流している自らの弟と、土方を見比べて女はきょとんとした顔を浮かべていた。転んだ、と異口同音に言ってはいるが、信じてはいないだろう。二人して大人げなく(一人は本当に子供なのだが)、殴り合ったことなど隠しきれない。女はそれでも騙された振りをしようと決めたのか、ため息をつくと、待っていなさい、と言い置いて部屋の奥へと消えた。それから女が持ってきた物は救急箱だった。
庭の水道で傷口の泥を落としていらっしゃい、との言葉に二人が従うと、女はまず弟の治療からとりかかる。あの生意気が服を着て歩いているような奴が、姉の前では借りてきた猫のように大人しい。揶揄ろうとすると、すかさず睨みを利かせてくる。その小さな身体に似合わず油断も隙もない。
次は土方の番だった。女の細い手が彼の傷口を、消毒液をつけた布で拭う。静かな痛みが患部から走る。



押しつけられた冷たい布が、どうやら少しだけ火傷していたらしい指の間に触れた。痛みが走る。鈍い痛みだった。
「やっぱり少し火傷してるんじゃないですか? 屯所戻ったらちゃんと治療してくださいね」
じゃあ、僕帰ります、と少年は水に濡れたハンカチを手に持った。土方はとっさにその手を伸ばす。少年は振り向いた。指先にしっかりと持ったハンカチを奪い取る。驚いたような表情を浮かべる少年が、なんだかおかしかった。
「借りてく。返却先は万事屋でいいか」
あ、はい、と頷く少年を確認すると、土方は背を向けた。
「じゃあ、お前もすぐ帰れよ、志村のメガネ」
「新八ですってば」
「分かった、分かった、志村弟」
「新八ですけど、まぁいいです、なんでも」
おやすみなさい、と背中越しに投げられた声に少しだけ振り向いてやる。だが、少年の姿はもうそこにない。少し離れた場所に、残像のような小さな背中が走っていくのが見えた。



春のおわり(2009/09/13)

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