人は成長するものだ、ということを、もしかしてすっかり忘れているんじゃあないかと、そう思った。
今日は千石の誕生日だった。毎年のように両親が用意してくれるケーキの上に光る蝋燭に、くすぐったいような気持ちを覚えたのはいつのことだっただろうか。気恥ずかしさを押し込めて吹き消した蝋燭の先に、笑う両親ともう一人。兄弟同然に育った幼い二人が、当然のように、毎年お互いを祝い合う、そんな思い出を何度繰り返してきただろうか。
頬を撫でる、開け放たれた窓からやってくる冷えた風に、何となく思い出した遠い記憶を重ねながら、千石は部屋のドアを閉めた。決して広くない部屋の四隅を牛耳るベッドの上に、千石以外の人間が眠りこけている。千石はため息をつくと、部屋の中央を横切り、少し強くなった風が吹き込む窓ガラスに手をかけた。カラカラとレールの回る音が、やたら大きく聞こえる。眠りから目を覚まさないだろうか、とふと不安になり、カーテンを静かに閉めた後、横に眠る彼女に視線を遣った。
学校帰りに直接寄ったのだという彼女は、千石の誕生日を祝った後、当然のように千石の部屋に来て、そして満腹のためかうたた寝を始めた。気に入っているという制服のプリーツスカートが、この恰好のままでは皺が寄ってしまうだろう。けれど、眠る彼女はそんなことなどまるでかまわずというように、眉尻を下げて唇を薄く開いていた。その表情は、千石が知っている、幼いころの彼女のようにも見え、そしてまったく知らない女のようにも見えた。
のぞきこむことに、妙な罪悪感を覚えて、千石はそのまま視線をずらして、向いにある机の椅子に腰かけた。背もたれをまたぎながら腰かけ、顎を乗せ、寝息を立てる彼女を息を殺して見つめていた。馬鹿じゃないのか、と自身を自嘲することで冷静になろうとこぼした呟きは、それで自身が冷静になれる確信も何もない上に、かえって、先ほどからの見て見ぬふりをしていた緊張をはっきりと自覚させることになってしまい、全くの逆効果だった。
せめて、彼女がランドセルを背負ったままの子供だったならよかったのに。
一年だけ彼女の先を行く千石を追うように、彼女も中学へ入学し、そしてもうすぐ一年が経とうとしている。新しい制服を、まるでモデルか何かのように千石に見せつけてきたとき、自分は最初、何と思ったのだろうか。どちらかというと骨が目立つ、まるで子供のような彼女が、はしゃいでいる姿を見て、ほほえましさとともに安堵したのではなかったか。それから流れた数か月の中で、ゆっくりと、しかし確実に丸みを帯びてゆく身体に、あの時感じていた安堵が段々と減っていった。しかし、だからと言って千石は何をできるわけでもなく、ただ、そのうろたえを彼女にだけは見せないように必死に取り繕うしかなかった。
自分の両親も、彼女の両親も、彼女がこうして千石の部屋に入り浸っていることを知っている。だが、それに関しては幸せそうに優しそうに笑うだけで、特に何の感想も抱いているわけではないようだった。幼い娘にそうするように、彼らは彼女に甘かった。彼らにとって、彼女の存在は、ある一定の、「子供」という枠にはまりきった存在でしかなく、どんなに彼女の両手両足がしなやかに伸びていこうとも、彼女が女としての徴を兆していこうとも、それは全く変わりはしないのかもしれない。それは千石自身についても同じことなのかもしれないが。
彼らと同じように、そう思えたらよかったのかもしれない。まるでほんとうの妹に接するように、時に笑い、時にからかい、そして幼いころによくしたように、手のひらを握り合ったまま、一緒に夢の世界に、あどけない表情をしたまま落ちてしまうことができたのなら。
けれども、そうするには、いささかこの手は無邪気さを失ってしまっていた。少々、大きくなりすぎたのかもしれない。
両親がそうするように、彼女の頭をなでてやることはできるかもしれない。その手を取って、体を支えてやることもできるかもしれない。抱きかかえてやることだって、できるだろう。だが、果たして、それだけのちからを手にしてしまったことが、本当に喜ばしかったことなのか、と言われると、千石は、判断することができないでいる。
夢を見ているのか、彼女の薄く開いた口から何かの声が漏れた。
もしかしたら意味のない、声というよりは喉が鳴った、というようなただの音だったのかもしれない。意味を求めるだけ無駄なことなのかもしれない。けれど、その音に対して、理由を探してしまう自分に、千石は眉を顰めて、頭を描いた。先日散髪したばかりのためか、毛先が皮膚を刺した感触を覚える。彼女の癖である脱ぎ捨てられてベッドの下に丸まっている、紺色の靴下に、心をかきまぜられた。布団の上に投げ出された細い脚を見た。千石と同じく、テニスを部活動に選んだという、彼女の足は、捲れたスカートの部分から、日に焼けていない白い部分と日に焼けた部分が同居していた。お菓子のよう、と恥ずかしそうに笑っていた彼女は、ふざけてそれを見せろといった千石から、とうとう最後まで守りきった。その脚の、太ももの中ほどの境目が見えていた。立ち上がり、吸い寄せられるように彼女の足元にしゃがみこんだ。少しだけ黒くなっている皮膚と、白いままの皮膚の境目に指を遣った。辿るように指を這わせる。千石の視線から頼りないプリーツスカートで隠されている、白い皮膚の先が、誘っているようにも思えて、思わず唾を飲み込んだ。
ほら、彼女はこんなにも柔らかい。
重ねた接触面は、ほんの指先の小さな部分だけなのに、なぜかその指先を話すことができなかった。触ってはいけなかったのだ、見てはいけなかったのだ、と後悔するのに時間はかからなかった。しかし、一度心を奪われてしまったその細い脚から、視線が、手が、指が離れない。
月日が過ぎる度に大きく骨ばってゆく自分の身体に反して、彼女はどんどんと細く、頼りなくなってゆくように思えて仕方なかった。初めてであったときは、そんな違いなどまるでなく、握り合わせた手のひらは同じように柔らかかったはずなのに、一体いつからこんなにも、明確に違いのわかる存在になってしまったのだろう。
「・・・セクハラだよ」
と戒める、寝起きのだるそうな、かすれた、柔らかい声がした。思わず反応してしまい、怒られたその証拠をしまいこむように指をしまいこんだ。
「本当に、ポッキーだね」
ごまかそうと、彼女が自分の脚を指して言った、そのお菓子の名前を出した。起き上った彼女は、ため息をつきながら広げたスカートの中にその細い脚をしまいこんだ。
「これでも、一応日焼けおさまってきたんだよ」
なんの疑問もなく、彼女はそう答えた。彼女は、たとえ、その胸元を飾るリボンをはずして釦を一つ二つ外したところで、寝苦しそうだったから、と理由を付け加えてしまえば、納得してしまうのだろう。それ以上のことを疑いもしない。それはなにも、彼女自身があまりにも無防備で能天気なだけだからではない。おそらく、彼女にとっても、千石はある一定の枠を超える人間ではないのだろう。彼女の中にある、幼いころの思い出のまま、時を止めてしまった存在なのだ。それ以上でも、それ以下でも決してない。『別の対象』と彼女が感じることは、絶対にありえない。彼女にとって一番近い『兄』であるのだ。
それが悲しいことなのか、光栄なことであるのかは、千石にはわからなかった。わからないことだ、と思いたいだけなのかもしれない。等しく釣り合っていた天秤のままであったら幸せだったのだ。その均衡を壊してしまったのは、他ならぬ千石自身なのだから。天秤が壊れてしまったことは、幸いにも彼女には伝わっていない。今は、それを幸せと思うべきなのだ。今は、まだ。
「桜乃、寝るなら家に帰りなよ」
「うん」
「制服、皺になるよ」
「・・・うん」
今にも眠ってしまいそうな声で、彼女は答えた。いつもはしっかりした彼女に急かされるのは自分のほうなのに、なんだか立場が逆だなぁ、と思わず笑みがこぼれた。
「・・・眠いのなら、運んでやろうか、家まで」
「うー、大丈夫」
目を擦り、伸びをしたあと、ベッドから身を乗り出し、丸まっていた靴下を拾い上げた。惜しげもなく脚をさらし、その紺色の靴下を身につけた。ベッドから降り、彼女が肩の後ろを確かめた。後ろ手でしきりにスカートの後ろを確かめている。
「皺になったのか」
「アイロンかけるから、大丈夫だよ」
同じように立ち上がった千石を、桜乃は見上げた。
「清純くんは、いつの間にそんなに大きくなったんだろうね」
息をのんだ千石に気がつかず、桜乃はまだ眠いのか、目をこすり、へらっとしまりのない笑顔を向けてきた。
「わたしも、もう少しおおきくなりたい」
そのほうが、テニスをするときに有利なのだという。制服をまくり、細い腕を出して二、三回軽く捻った。思わず手首をつかんだ。不思議そうに見上げる桜乃を視界にとらえ、単純に、可愛いと思ってしまった。頭の中で警告が鳴り響く。だから、駄目なのだ、と。
「・・・細っそい腕」
うるさいなあ、と桜乃は言った。尖らせる唇に目を奪われる。口を合わせたら、どうなるのだろう。細い首筋、控え目に主張する鎖骨、その下に隠れている柔らかい膨らみ。薄い腹、腰、そして。
黙り込んだ千石に、桜乃は怪訝な顔を向けた。黒い滑らかな髪が、頬を滑る。子供のころは知らなかった欲を覚えてしまった。彼女がなんの疑問も抱かず、眠っている、夜の中に別の何かがあるのかを知ってしまった。
ああ、彼女が、この部屋の中で一緒にいるだなんて、とんでもない話だ。その頼りない身体を組み敷き、無体を強いてしまうことなど、あんまりにも容易に想像できてしまって。
「帰るよ」
「はーい」
「・・・子供だねぇ」
一歳しか変わらないよ、と彼女は言った。そうだよ、一歳しか変わらない。もう子供じゃないんだ。だから。



ぬるま湯につかる子供たち(2008/11/13)

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