「世界で一番歌われている歌って、知ってる?」
千石の自室でくつろぐ中、脈絡なく問いかけた彼の言葉に、目の前にいる桜乃が目を見開いた。冬の乾燥した空気が容赦なく突き刺さる中、一心に千石を見つめる彼女の眼はしっとりと潤っている。こぼれおちてしまいそうだ、と千石は桜乃の瞼を両手で覆った。
暖房の効いた室内にいるにも関わらず、千石の手は彼女の皮膚の温度より低かったのだろう。桜乃が素っ頓狂な声をあげる。ごめん、と笑って瞳を覆う手のひらを外した中から、彼女がほんの少しだけ剣呑な視線を彼に寄こした。膨れる彼女が可愛らしくて、思わず頬に唇を寄せた。また彼女は慌てた甲高い声を上げる。口を寄せた側の頬を押さえた彼女は、耳まで赤くなっていた。かわいいなあ、とそれだけを強く強く思い、手のひらを桜乃の頭にやり、すべらかな黒い髪を撫ぜた。千石の手のひらと甲を滑る、しっとりと潤った髪の感触が、彼はたまらなく好きだった。指先で長い髪を一房、弄んでいると、はじめはふてくされた顔で静観していた彼女がだんだんと顔を背けだす。もちろん、千石のことが厭で顔を背けたわけではないことを、千石はよく知っていた。なぜならば、横顔を見せた彼女の頬はほんのりと赤く染まっていて、彼女のひとつだけ見える瞳には、うっすらと涙がたまっていたからだ。これは桜乃が恥ずかしさにどうしていいのかわからないときによく見せる動作だったからだ。千石は下心を見せた、意地の悪い笑みを浮かべる。彼を見ようとしない、彼女になんどか呼びかけた。数度繰り返すと、渋々彼女は首を元にもどした。
「からかわないでください」
「からかってないよ」
「うそ! からかってました」
「うそ! ばれちゃったね」
「・・・千石さん!」
再び顔を横に背けた桜乃の首を、今度は半ば強引に自分の方に向けた。両手で包むと、可愛らしい彼女の頬が手のひらに触った。滑らかな皮膚の感触が気持よい。少し力を入れると、彼女の唇が突き出すような格好になる。面白い顔、と笑うと、彼女が本格的に臍を曲げる。拗ねて怒った顔すら愛おしく思えてくるのはなぜだろう、と何度も浮かんだ疑問が飽きずに浮かびあがってきた。
機嫌を損ねたままの桜乃が、おかえしとばかりに千石の頬を両手でつまむ。引っ張ったり回したりしているようだが、力のこもっていない彼女の制裁にあまり効力はなく、ただ、じゃれつかれているようにしか感じられなかった。
しばらく千石の頬で遊んでいた桜乃が、思い出したかの様に言葉を紡ぐ。
「で、さっきの答えって何の歌なんですか?」
桜乃の問に答えを返す代わりに、千石は彼女の両手を捕まえた。そのまま、彼女の両腕を背中に廻し、固定する。突然の千石の行動になされるがままの桜乃は、慣性にしたがって後ろに倒れそうになる。それを阻んだのは背中に回っていた千石の腕だった。千石の胸と腕が作る輪の中に閉じ込められて、桜乃はもがくように顔を上げた。千石はそんな桜乃を、いっそ無遠慮なまでに覗き込んで見つめていたから、顔を上げた彼女と視線とぶつかった。至近距離で見つめ続けられるにいまだに慣れぬ桜乃が、体勢のためかあまり動かせない首の代わりに瞼を伏せた。伴って動いた長い睫が影を作る。それでも諦めずにずっと見つめていると、根負けしたのか桜乃は睨みあげるように視線をあわせてきた。ほのかに赤く色づいた頬のままでは大した迫力など出せぬことを彼女が知っているのか、分からなかったが。
「ああ、ハッピーバースデー、だよ」
桜乃が納得したように声を上げた。そして柔らかな唇から歌を奏でる。誰もが知っているであろう、誕生日を祝う歌だった。千石は笑みをより深くした。正解だよ、そう言って彼女の鼻の頭に口付けた。
「もうすぐ桜乃ちゃん誕生日だから、俺が歌ってあげるよ」
笑うと、彼女も同じ笑顔を浮かべてくれる。同じように返される表情で、彼女も同じ感情を持ってくれているのだ、とそう直感する。それだけがただただ嬉しくて、胸が苦しくて一杯になる。目を細めると、いつの間にか涙腺から溜まっていた涙が、少しだけあふれて端に滲んだ。
「じゃあ、千石さんの誕生日のときは、私が歌ってあげますね」
笑いながら、当然のごとく宣言する桜乃がいた。彼女の笑顔に、何かが背中から駆け上がってきたような気がする。急かされるように、思わず抱きしめてしまったが、彼女は、苦しいとただ笑っていた。抱きしめたことで収まると思っていたが、かえって暴れだしてしまったようで、手がつけられない。とうとう脳髄までもが侵食されてしまったようで、もはや何も考えられないでいる。千石はただただ必死に彼女の名前を紡ぐことしかできない。そんな千石を見て、桜乃は苦笑をこぼした。まるで子供のようにしがみ付く彼の背に、桜乃は手のひらを這せる。なだめるような、慈しむような、わたしもあなたが愛おしいのだ、という主張を込めたその手を。



約束を二つ(2009/01/15)

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