切原赤也と付き合っているという、竜崎桜乃を紹介されたときはただただ驚いた。
真田にとっては竜崎桜乃は初対面であったが、その彼女の小ささに驚いた。平均中学生の体格を大分超えた真田から見ると、竜崎桜乃はまだ小学生のように思えたのだ。それに、真田が見た竜崎桜乃の印象からは、切原が好みそうな点が見当たらなかった。もちろん、竜崎桜乃のことが嫌いだとか、そういう訳ではない。ただ、たまに自分を見失って暴走してしまうような、そんな危なげなところがある切原を包んでやれるのは、もっと年上の人間であるような気がしていたし、切原自身の好みもそうであったはずだった。眼の前の、この幼い印象さえ残す少女が切原を支えてやれるのだろうか、彼の持つ黒い何かに飲み込まれてしまうのではないか、と真田は不安がよぎる。
とは言っても、付き合いをやめろと二人に言うには、真田は何の権利も持たない。自らの感じたうすら寒いものを、大丈夫だろう、彼らの間でなんとかするだろう、と飲み下し、真田は厳格な先輩としての顔を取り戻す。
切原を見ると、真田と切原を交互に見つめる竜崎桜乃の背に手を遣り、にこにこと笑いかけていた。彼女は初対面の真田に威圧感を感じているのだろう、怒られるのではないかと委縮しながらその大きな瞳を曇らせている。おどおどとした態度の彼女から、小動物を連想してしてしまう。思わず顔が赤らんでしまったが、それは切原は気がつかなかったようだった。相変わらずデレデレと鼻の下を若干伸ばし気味に竜崎桜乃をあやしている。彼女自身も、切原を信頼し切っているようで、彼の言葉にいちいち真剣に頷いている。二人の仲の良さが垣間見えて、真田は思わずそのほほえましさに笑ってしまった。
それから彼らは、学校が異なっているし、住んでいる場所も近くとはいえないため、苦労しながら順調に交際を続けているようだった。切原はよく「なかなか会えない」と愚痴をこぼしていたが、それでも週に一度は会っているようだった。他の部員からのからかいにも嬉しそうに応えていた。ただ、それも数か月のうちで、半年もたって来ると、目に見えてわかるほどの不機嫌な応え方をするようになっていった。それが気になって、真田は切原に聞いてみるが、切原は答えにくそうに口を濁すだけだった。それでもしつこくしつこく聞き出すと、その重たい口から、真田にとって信じられないような事実が飛び出した。
「桜乃、前好きだった奴が忘れられないみたいなんですよ」
あの時、切原から紹介された竜崎桜乃は、切原のことが本当に好きなように見えていた。彼女は純真で、ただただまっすぐに、いっそ切原がうらやましいと思ってしまうほどに彼が好きなのだ、と全身で訴えんばかりだった。そう感じた真田の直感は狂っていたのだろうか、と自問する。切原の話の中に出てくる竜崎桜乃と、自分が会った竜崎桜乃の印象に違和感を感じる。女はみんなそうなのだろうか、あの幼く愛らしい彼女でも誰にも言えない心の裏側があるのか、と真田はまるで裏切られたかの様に感じてしまった。
「・・・よく、彼女とは話したのか?」
かろうじてそれだけを口にした。真田の声を遠くに聞きながら、切原は呟いた。
「俺、次にあったら何するのか・・・」
呟いた切原の声は、途中で真田には聞こえなくなってしまったが、その先をもう一度聞く勇気はなかった。どうすることもできずに、ただ通り一遍の言葉を切原にかけてやる。我ながら心のこもらない、上滑りした言葉だと、口に出しながら思う。切原は一応それに応えを返す。真田がその場から立ち去ろうと背を向けたとき、後ろで切原が言った、くそ、という声を聞いた。真田に向けた罵りの言葉ではないようだった。竜崎桜乃に向けた罵りでもないようだ。竜崎桜乃が切原以外に好きだという人間に向けたものでもないだろう。ただただ、いらだつ自分へと向けたものであるようで、その響きは切なかった。
それから数か月がたった。また切原は以前の明るさを取り戻していた。やはり別れたのだろうか、あれから部員たちのからかいに、切原はイエスもノーも返さずに受け流していた。だんだんと部員たちもそれが何を意味するのかがわかるようになり、恒例行事になった感のある「切原の可愛い彼女について」は、いつの間にか廃れていった。絶滅してしまったかのようにその話題が部員の口に上ることはない。興味を失うのも早いものだ、と真田は思う。だが、これで竜崎桜乃との縁も切れてしまったかと思うと、どこか悲しかった。
そんな中、真田は無事に高校進学が確定した。とは言っても、付属の高校へとエスカレーター式に進学を行うだけで、進学のためにテストが必要になるわけではない。青春学園に全国大会で敗れたとはいえ、テニス部副部長として全国大会準優勝を得た功績は進学のためには十分な条件であったし、学力の方も普段の学力テストで十分な成績を取っていたから、高校への進学決定が真田にとって特に喜ばしいかといえばそうでもなかった。ただ、卒業式が終わってしまってから、四月の入学式を迎えるまでの二週間の休み、中学生なのか高校生なのか身分が中途半端になってしまったこの浮遊感を真田は奇妙に思っていた。早めに配布された教科書を真田はめくってみる。一時間ほど読み込んでみるが、どこか気分が乗らない。汗を流そうか、とラケットを握り、外へ出て壁に向かってボール打ちをしてみるが、やたらとミスショットが続く。どうも気分が乗らなかった。そんな甘えたことを言っているようでは、と普段の自らの思考回路に載せるが、なぜか途中から集中が乱れてしまう。苛々としながら部屋へと戻ると、置きっぱなしにしていた卒業証書が目に入った。隣にテニス部員全員で撮った写真が一枚ある。裸で置かれていた写真を手に取った。真田の隣には部長の幸村がいる。幸村の隣には切原がはにかんだような笑みでそこに納まっていた。その姿を見たとたん、あの時の切原と竜崎桜乃の姿が鮮やかに脳内に再生される。忘れ物をしてしまったのは、これだ、と真田は部屋を飛び出した。中学へ向い、部室の前に立つと、そこが鍵がしまっていることに気がついた。二、三度開けようとドアノブに手をかけ引いていると、そこに部員が通りかかる。荷物がたくさん入った段ボールを両手で抱えた彼には、ドアにへばりつくように立っている取り乱した真田を見て驚いていた。忘れ物ですか、と聞く彼に、真田はとりあえず頷く。じゃあ、と彼は言うと段ボールをその場に置き、鍵を開け出した。何度引いてもあかなかったドアがあっさり開く。だが、そこにやはり切原も竜崎桜乃もいるはずがなく、真田は落胆した。
壁に貼り付けられていた新しいスケジュール表を見た。フォーマット自体は変わっていなかったから、真田にとっても見慣れた表のはずだが、真田が卒業してからの日付が項目としてある。知っているようで知らない表だと、すでに部外者になってしまったことを真田は改めて感じた。だが、竜崎桜乃の連絡先を知らない真田にとって見たら、彼女に会うのはとても難しそうだが、そうであればせめて切原には会わなければ、という焦燥感だけが真田の中で渦巻いていた。
スケジュール表によると今日は一日休みだった。鍵を開けてくれた部員は、持っていた段ボールを担ぎあげる。もともとこの部屋に運び入れるための荷物だったのだという。片付け始めた部員を手伝おうとするが、彼は笑って真田先輩にはご迷惑をおかけできません、と言った。忘れ物は見つかりましたか、という彼の問いかけには言葉を濁してしまった。それを見つからなかったのだ、と解釈した彼は、笑いながら早く見つかるといいですね、と言う。働く彼のそばでこれ以上ぼんやりしているのもいたたまれなくて、真田はその場を逃げるように後にした。校門を出てしまってから、どうしようかと思い悩む。家に帰るという選択肢もあったが、何となく帰る気がせずに、家とは逆方向の、駅への道を歩き出した。駅のポスターで見た映画を見ようと決め、電車に乗った。すぐに映画館の最寄駅についたが、真田はそれを乗り越した。ぼんやり乗っていると、青春学園の最寄駅の近くまで来た。真田はそこで下りた。この駅にも映画館はあるから、もしかしたら、竜崎桜乃に会えるかもしれないと淡い期待を抱いてしまったのだ。だが、めったに来ることのない駅だったから、勝手がわからず、真田は駅構内の案内図を見ていた。大きな駅なので、下り口も複数個あるらしく、とりあえず改札を出たけれど、どこからどの出口にいけばいいのか見当もつかない。困りながら案内図を見つめていると、遠慮勝ちにかけられた声に気がついた。
「あの、真田、さん、でしょうか・・・?」
自分の名前を上げられ、真田は驚いて振り返る。大分下に、一生懸命だが不安そうに見つめる大きな瞳があった。どこかで見たようなその光景に真田は思わず息を呑んだ。彼女に会えないかと淡い期待は胸にあったが、まさか本当に会えるとは。それも彼女から声をかけてきてくれた。真田はふるえそうになる声をこらえる。幸いにも彼女には気づかれなかったようで、竜崎桜乃はその大きな瞳であたりを見回していた。
「こちらに何か御用でしょうか?」
映画を見ようと思って、と真田はしどろもどろに答える。それを素直に竜崎桜乃は信じたようで、笑いながら真田に提案した。
「その映画、私も見たかったんです。よろしかったら一緒に見ませんか。私も一人なんです」
その誘いに頷いてしまったことを真田は後悔することになる。



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