見上げると抜けるような青空が広がっていた。まぶしさに目を細めていると、花の散った桜の枝を揺らす風が、並んで歩く二人の肩をそっと撫でていった。桜はその枝に、若い緑の葉を覆いに茂らせている。もうすぐに夏が来るだろう、と予感させる、暖かな日差しだった。
隣を歩く桜乃が乱れた横髪を撫でつけている。それを千石はほほえましげに見守っていると、桜乃が小さな声を上げて目の前の花屋に駆け寄った。
「きれいな花ですね」
と桜乃は言い、そして目の前に活けられていた白いチューリップをじっと見つめていた。静かな時間の中で、彼女は穏やかな表情でほほ笑むだけだった。何か続きを言おうとしているのだろうが、言わせたくないとも思う。だが、千石には桜乃の言葉を上手に遮ることが難しい。黙って彼女の言葉を待つしかなかった。
「この花の花言葉って知ってますか?」
「・・・知らないよ」
白いチューリップを指差し、桜乃はにっこりと笑って見せた。
「失恋です」
「赤いやつとかもそうなの?」
「赤は違いますよ。赤は愛の告白、黄色は実らない恋、ピンクは愛の芽生え、だったと思います」
細いまろやかな指が伸びて、たくさん活けてある中から一本を引き出す。香りを確かめるように桜乃は花を近づけた。
そしてそれを店員に渡す。一本だけですみません、と謝る彼女に、店員はにこやかに応対しながら紙で丁寧に包んだそれを桜乃に手渡した。会計を終え、桜乃が戻ってくる。ぼんやりとそれを見守っていると、腕を引かれ、そのまま外へと出る。空は抜けるほど鮮やかな青い色をしていた。彼女は一輪の白い花を持って、にこやかに笑っていた。
「少し、歩きませんか」
そう、桜乃に誘われるがまま、歩きだす。街中を過ぎ、川沿いの、整備された遊歩道を歩く。ジョギング中の人や、散歩中の人とすれ違う。たまに犬の散歩をさせている人ともすれ違って、そんなときは彼女はすれ違う犬を足を止めて可愛らしいというように見送っていた。
やがて桜乃は土手から川べりに降りる。花を抜き出す。声をかけると、彼女は振り返る。にこやかに笑っているが、どこか脆い笑顔だった。思わず千石は桜乃の手を取る。絡め取ろうとするが、桜乃の指は千石の拘束から抜け出してしまった。そのまま彼女は数歩前に出た。手に持っていた白いチューリップを川に向かって投げる。空気に抵抗しながら、それはゆっくりと川の流れの中に吸い込まれていった。桜乃はそれをただただ見ている。千石は流れていく白い花を数歩追いかけた。だが、ゆっくりとした流れに見えたその川は、案外速いようで、すぐに見えなくなってしまった。桜乃の想いが流れてゆく。彼女が誰を想っているかなんて、千石には痛いほどよく分かっていた。出会ってからこそ短いが、千石は自分なりに一生懸命に桜乃を見ていたのだ。おそらく、桜乃が大切にしていた想いと同じくらいに。
千石は桜乃を振りむいた。桜乃は黙ったまま、うつむいていた。風が前髪を揺らしていた。この天気の良い空にそぐわない沈黙が落ちる。千石は、桜乃に何も言わせたくないと思うが、うまく沈黙を破る言葉が見つからなくて、ただ、じっと彼女の顔を見つめることしかできなかった。やがて彼女が顔を上げる。泣いているわけでもなかったが、笑っているわけでもなかった。
「これで、終わりです。一緒にいてくれて、ありがとうございました」
千石は桜乃のそばに戻る。その手を取って手のひらを握る。今度は逃げることをせずに、彼女の指は千石の手のひらに預けられた。
「帰ろうか」
そう呟いた千石の声に頷き、歩き出す。やがて千石の肩の下ですすり泣く桜乃の声が聞こえだした。



花を流す(2009/04/25)

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