夏休みは今日で終わる。八月三十一日の夕方も終わるような時刻だった。
明日、登校するために着用する制服をクローゼットから出し、定位置にかける。クリーニングの札がついていないことを確認し、鞄を手に取った。ペンケースと提出書類は既に入っている。それを確認すると、机の横に鞄をかけた。
「桜乃、ちょっと買い物行ってくれない」
部屋のドアを開けると、そこに母親が立っていた。財布と、いつも使っているエコバックを手にしている。
「いいけど、何を買ってくればいいの?」
「福神漬」
「今日はカレー?」
「うん。お菓子も買ってきていいから」
やった、と喜ぶと、桜乃は母親の手から荷物を受け取り、階段を軽やかに駆け降りる。
気をつけるのよ、という母親に、大丈夫だよ、と簡単な返事を返す。近所では最近変な学生が出ると噂になっているが、まだ外は薄明るい。太陽が完全に沈み切るまでには少し余裕がありそうだ。
下駄箱からスニーカーを取り出そうとしたとき、ふと喉の渇きを感じた。水分補給を行ってから、と予定していた行動を修正し、桜乃はキッチンに向かう。そこでコップに冷えた麦茶を入れ、飲みほした。隣に置いてある鍋を開けると、出来たばかりのカレーがいい匂いとともに湯気を立てていた。そこに母親が下りてきて、テレビの電源をつける。最近買い換えたばかりの液晶テレビに、凄惨な事件現場が映し出された。
それは横転するトレーラーの下敷きになっている、マイクロバスの映像だった。
上空を飛ぶヘリコプターから、緊迫するリポーターの声とともに映し出される映像は、ここ数日前に起きた高速道路の事故の映像だった。最近とくに視聴者の興味を引けるような大きな事件もなかったワイドショーでは、事件が起きたとたん、どの局のどの番組でもまるでこの事件の特集番組といった形になってしまっている。マイクロバスの乗客が、部活の合宿帰りの中学生だったというのも、この事件の取り上げを大きくしている原因になっていた。
「この事件、かわいそうだね」
乗っていた彼らは、同じ都内の中学生だという。
学校こそ違うが、同じテニス部だということだから、もしかしたら、桜乃も応援に行った夏の都大会会場ですれ違ったのかもしれなかった。しかも、事件の起きた日と、自校の男子テニス部が合宿からマイクロバスを使って帰ってくる日は一緒だったのだ。もし、何かが一つ違っていれば、ああやってテレビで報道されていたのは、自校の生徒だったかもしれない。
黙り込んだ桜乃を気遣うように、母親がテレビを止めた。真っ黒になった画面に、桜乃の顔が映り込む。
「まぁ、桜乃も車には気をつけるのよ」
大丈夫だよ、と笑って桜乃は玄関に向かう。スーパーへと向かった。ほんの十分ほどの距離だ。近道して公園の中を通り抜けようとすると、ブランコに乗った白い学ランの少年がそこにいた。
気になって見つめていると、どうやら少年も桜乃も視線に気がついたようで、顔を上げた。母親の言っていた変な学生の噂が気になったが、すぐにそれはない、と考えを打ち消した。本当に怪しい人だったら、桜乃の顔を見てあんなに間抜けな顔をするだろうか。思わず噴き出しそうになり、慌てて口を抑える。早く行ってしまおうと、脚を速めた。
公園を出たところでもう一度振り返る。だが、彼はすでにどこかへ行ってしまったあとらしく、もう姿はなかった。



目的の福神漬と、ついでに好きなお菓子を入れたエコバックをぶら下げ、桜乃は来た道をもう一度辿り返している。公園に入ったところで、何となく足をとめる。ブランコの方を見ると、また、あの少年が来たときと同じように腰かけていた。
帰り道に利用するまで、ほんの十五分くらいのことだから、彼がその間ここにいたっておかしくはないのだが、一度どこかに行ってしまったあとだと思っていたから、桜乃は驚いた。このまま公園の中を通っていくのも嫌だな、と感じるが、かといって敷地回りの道路を歩いて行く気にもなれなかった。宅地と宅地の真中にあるこの公園は変わった形をしていて、回りの道路をあるくと遠回りになってしまうのだ。それに、桜乃が敷地に足を踏み入れた瞬間、ブランコに座る少年が桜乃の姿を振り返った。
このまままわれ右をして、出て行ってしまうと、「あなたは怪しい人なんじゃあ」とのメッセージを送ることとなってしまい、逆効果なのではないかと思ってしまう。決してそう言うわけではない、ただ、あなたは帰ったものだと思っていたから驚いたのだ、といくら説明しても、伝えられる自信はない。
少年が立ち上がる。どんどん桜乃のそばに近づいてきた。明るい髪の色をしている。薄暗い闇の中、灯し出された街頭に照らされたその表情は、よく見えなかった。
どうしようと、思っている間に、彼は桜乃のすぐ前へと来ていた。腕を伸ばされる。思わず手をひっこめるが彼は構わず桜乃の手を取った。桜乃は逃げ出したいと思うが、脚がすくんでよく動かない。
彼は先ほどからねぇ、だの、おい、だの繰り返していたが、ただ焦ってるだけなのか、怒りを込めたものなのかは桜乃にはわからなかった。彼の表情を見ることもかなわず、桜乃は俯いて下を見る。自分の足元を見た。薄暗い影が伸びている。だが、少年の足元には同じようなそれがない。影が、ない。
「え」
思わず声を上げて少年を見た。彼は確かにここにいる。掴まれた手もそのままだ。体温も感じる、ような気がする。
だが、本当に暖かさを感じるかというと、分からなかった。むしろ、冷たいのではないかと思う。
自覚すると、彼の手は、温度が逃げていくようにどんどん冷たくなっていく。氷を触っているかのようだった。
反対の手に握っていたエコバックが手から滑り落ちた。それに気がついた彼が手を伸ばし、地面に落ちたそれを拾い上げた。
「落ちたよ」
「あ、どうも、ありがとうございます」
どういたしまして、とにこやかに笑うが、掴んだ手を離すことはないようだった。
「あ、あの、離してくれませんか。私、早く帰らないと・・・」
なるべく目を見ないように、そらしながら桜乃は呟くように言った。覗き込もうとする彼から必死に目をそらす。
「うん、いいよ」
そういって彼が手を離す。離した瞬間、世界は崩壊・・・することはなかった。いつもの、見知った公園だった。だが、目の前にいた少年の姿だけ忽然と消え失せている。
「あれ」
間抜けな声が口から洩れた。暑さによる幻でも見たのだろう。
「幻じゃないよ」
そう、幻。
「だから、違うって」
うん、幻。
「・・・頑固だね」
肩を叩かれた。心臓が飛び跳ねる。突然耳の後ろに吹き込まれた様な声に、桜乃は思わず振り向く。勢いあまって尻もちまでついてしまった。そこには少年がいた。ただ、ふよふよと浮かんでいた。手品の一つだろうか。だと思えば、影についても手品の一つだと説明が付けられる。なんと凝った演出だろうか、すっかり騙されてしまった。
「手品じゃないって」
少年は桜乃の思考を読み取ったように、にっこり笑って手を振った。
「俺、いわゆる幽霊だから」



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