「別にケーキのほうへ行ってくれてもよかったのに。お友達の・・・誰ちゃんだっけ?」
「・・・朋ちゃんです」
「うん、そのはもちゃんのお誘い、断ることなかったのに」
「やっぱり今から神社に行ってお祓いでもお願いしましょうか」
「悪霊扱い、可愛い顔して結構えげつないねぇ〜」
隣に浮かぶ幽霊は、無論他の人には聞こえない声でのんきな笑い声を上げた。思わずDVDのパッケージを掴む手に力が籠る。貸出されていて中身のない、柔らかなプラスチックのパッケージが力を込めた通りにたわみ、慌てて桜乃はその手に込めた力を抜いて、溜息をついた。
「とりあえず千石さんの成仏を優先しますから・・・」
と手にしたリクエスト表(別名:千石が見たい映画・漫画・小説・その他リスト)を力なく見た。悪いね〜、と全く悪いと素粒子レベルで思っていない声で千石は言った。平日の昼時、彼ら以外にはレンタルビデオ屋に客はほとんどいなかった。
二学期が始まった初日の今日は午前中で終わりだった。一時間程度の始業式と、その後の少し長めのホームルーム。一ヶ月半後に迫った文化祭の演目決め。それで終わりだった。三年生などはもっと早くから準備を行うが、桜乃たち一年生はほとんどのクラスが今日から準備を始める。桜乃達のクラスも例外ではない。だが、決まった演目に、桜乃は思わず肩を落とす。なぜならば、ほぼ満場一致で決まった演目が『お化け屋敷』だったからだ。
一連の流れを思い出し、思わず桜乃は大きく息を吐いた。重い溜息が通路に沈む。桜乃の背丈を優に超える、通路を仕切る棚には、所狭しとホラー映画のパッケージがディスプレイされている。桜乃ははっきり言ってホラーものは大の苦手である。夏場に決まって一本は放送される幽霊ものの特集番組などはその予告すら目に入ると、トイレにすら行くのに躊躇してしまうし、ましてや風呂などかなりの勇気が必要になる。髪の毛を洗うときは可能な限り目を開けていなければ恐怖に心が折れそうになるし、鏡に映った自分の背後に見知らぬ血だらけの人間が映りはしないかと鏡すら見るのを避けるようになってしまう。
そんな自分が、普段は決して足を踏み入れるどころか案内板の『ホラー映画』の文字すら目に入れないようにしているこの自分が、まさかこんなおどろおどろしいパッケージに包まれているだなんて。なんでリクエストがこんなホラー映画なんですか、と気楽にふよふよ浮かんでいる千石を睨みつけた。
半ばやけくそな気分で『今月のオススメ』欄から一本のパッケージを手に取る。当然これもホラー映画だった。恐ろしそうな顔をした少年の幽霊が大きく口を開けて白目をむいている。思わず気が遠のく。
朋香の誘いに乗っていたら、楽しいお喋りにジュースにケーキだったのに、と、まるで天国から地獄のような気分でいると、図上にうかぶすべての元凶が楽しそうに頷き、桜乃が持つパッケージを指差した。どうやら彼の求めていたものはこれだったようだ。これでやっとこのコーナーから出られる、とやっとのことで訪れた救いに、げっそりとした気分で一歩足を踏み出すと、千石は今気づいたとばかりに桜乃を呼びとめた。
「あ、桜乃ちゃん、あと二本!」
「・・・もう許してください・・・」



レンタルビデオ屋を出たところでかけられた声に桜乃は気が付かなかった。許容量を超える恐怖画像に頭がパンクしていたせいだろう。ふらふらと危なげに車道に出ようとする桜乃の肩を掴んで歩道に戻されてようやく気が付き、肩を掴む手の主を振りむいた。
「竜崎、何やってんの」
「え、あ、リョリョリョリョーマ、くん!?」
急に振りむいたものだから、背後にいた越前リョーマの顔のドアップを見ることになってしまい、桜乃は狼狽して踏鞴を踏んだ。転ぶのを阻止しようと変な風に踏ん張ろうとするものだから、スカートがめくれそうになってしまった。思わず裾を押さえると、それが悪かったようで、桜乃の身体はそのまま制御を亡くした。目を固く瞑って来る衝撃に備えたが、予想された痛みは来ない。恐る恐る目を開けると、そこにはリョーマを下敷きにしている自分の姿があった。
「文字通り尻に敷かれてんなぁ、越前よぉ」
自転車を引いて二人の前にやって来たのはテニス部二年の桃城である。同じくテニス部のリョーマに対して桃城は先輩であるが、気が合うらしく、自転車通学をしている桃城の自転車の後ろに乗っているのをよく見ていた。
「あ、リョリョリョ、リョーマくん、ごごご、ご、ごめんなさい!」
飛び上らんばかりにその場を退くと、リョーマが憮然とした顔をしながら起き上った。夏服の白いカッターシャツが砂埃で薄く汚れていた。
「ごごご、ごめんなさい、リョーマくん! どどどど、どこか、怪我とか、その、だ、だいじょう・・」
リョーマは同じ学校に教師として勤めている祖母のスミレが顧問をする、テニス部のレギュラーだ。スミレ自身もリョーマへの期待を常々桜乃に話していた。それだけではない、桜乃自身も何度も助けられている、同じクラスのクラスメートだ。桜乃が女子テニス部に所属しているのも、同じ年齢のリョーマへの憧れが強い原動力となっていた。
そんなリョーマが、もし自分をかばったせいで怪我でもしてしまっていたら、と思うと、桜乃は気が気でない。顔から血の気が引いて行ったのがわかる。9月と言ってもまだまだ暑い。しかもここは冷房など聞いていない屋外だ。汗ではないひんやりとしたものが背筋を伝わった。蒼くなった唇を桜乃は噛み、泣き出しそうになるのを堪えていた。
すると、それに気がついた桃城が、快活そうな笑い声を上げた。
「大丈夫だよ、竜崎、えーっと、桜乃ちゃん? こんなふてぶてしい奴、殺しても死ぬわけないし。それより、桜乃ちゃんのほうが怪我とか大丈夫? お兄さんに見せてごらんなさい」
うやうやしく桜乃の手を取ろうとした桃城の腕をリョーマの手刀が襲った。いてえ、と桃城が悲鳴を上げて大袈裟に打たれた二の腕を掴む。
「桃先輩を犯罪者にするわけにはいきませんから。セクハラの」
「おま、本気で叩いたろ!」
「手加減しましたよ、鍛え方が足りないんじゃないっスかね」
それより、と今度は桜乃に向き直る。再び目があって、思わず桜乃の胸は高鳴った。
「竜崎、大丈夫?」
今度は別の緊張が襲ってきて、桜乃はうまく言葉を継ぐことができない。今度はどんどん血液が頭に上ってきて、頬が熱い。思わず今もしびれたままの左手を隠した。大丈夫だと示そうと、とりあえず何度も何度も頷いて置いた。だが、リョーマに隠し事はできなかったようで、背中に隠したはずの左腕を掴まれて引きずりだされてしまった。抵抗するが、会えなく掌をリョーマの目前にさらしてしまった。
アスファルトに手をついた時に擦ったらしく、うっすらと血が滲んでいた。咎めるような眼を向けられる。その視線に耐えられるはずもなく、桜乃は目を瞑った。
傷に残っていたらしい砂利をリョーマが手で払う、傷口から直接伝わった痛みに思わず小さな悲鳴を漏らす。早くこの手を離してほしい、痛みを別の何かで心臓が持たない、と桜乃は破れかぶれに言い放った。
「こ、こんなの、唾付けとけば治るから!」
ふーん、とリョーマは面白くなさそうに言い、そして次の瞬間、桜乃にとっては信じられないような行動に出た。生ぬるい感触がしたと思ったら、リョーマが掌の傷口に舌を這わせたのだ。隣にいる桃城は、リョーマの突然の出来事に驚くばかりで止めることができないでいる。
掌を凝視する桜乃と目が合うと、リョーマは口元に一瞬笑みを乗せた。
「唾付けたら治るんだよね?」
思わず叫んで手を振り払う。地面に落ちたままの荷物を抱えると、桜乃は一目散に逃げ出した。



逃げる桜乃の背中がみえなくなってから、ようやく衝撃が薄れたらしい桃城が口を開いた。
「・・・お前、誰にでもああなの?」
「まさか」
桜乃の逃げた方向とは反対方向にリョーマが歩きだす。慌てて桃城はその背中を追った。
「おい、そっち、お前んち方向じゃないだろ?」
リョーマはその問いかけに無言だった。どうやら察したらしい桃城が苦笑を浮かべて溜息をついた。
「・・・越前、お前やり過ぎ。ありゃ絶対引かれたな」
横目でリョーマを見ると、やはり普段の表情の見えない、ポーカーフェイスだったが、どうやら図星のようで、少しだけ機嫌の悪い顔つきをしていた。



玄関に飛び込むと、慌てて鍵を閉めて、その場に倒れ込んだ。そして左手を何となく見る。本当に軽い傷だったようで、もう血は滲まなくなっていた。
ああ、ここ、リョーマくんが・・・
思い出すだけで頭に血が上る。沸騰しそうだった。頭がぐらぐらとなる。慌てて飛び起き、そのまま洗面所へ飛び込む。水道を勢いよく流し、その中に両手を突っ込み、むちゃくちゃに擦り合わせた。心臓が死んでしまいそうだ。さっきからドクドクドクドクドクドクドクドクうるさいくらいだ。取り出して冷たい水の中につければ少しは落ち着いてくれるだろうか、とかなり真剣に考える。もはや正常な思考なんて望めそうにない。
きゃーだかわーだかぎゃーだかもう意味をなしていない声を上げ続ける。一通り洗い終えると、何とか水を止め、その場に座り込んだ。もはや立っていようにも腰や足やら力が入らない。他の部分はどこに行ってしまったんだろうかと思うほどに、リョーマが触れた部分だけが強烈な存在感と熱を放っていた。背後から千石がどこか面白そうにのぞきこむ。千石のアップにも驚いてして濡れた手を拭かないまま後ろに倒れ込んだ。
「越前、リョーマくんだよね。俺知ってるよ。こないだの夏の大会でも有名人だったし。彼のお父さんも有名人なんだよ」
今、彼のことを口にしないで、と思わず両手で顔を覆う。頬にあの部分が触れたことに気がついて、左手だけをなるべく遠くに離そうと高く手を上げた。まだ、感触が残っているような気がする。心臓がまた高く鳴りだした。
「あ、わかった、越前くんのこと、好きなんだ」
楽しそうな笑い声を上げて千石は桜乃をのぞきこんだ。図星を指されて桜乃は思わず千石を見る。目が合うと、千石はやけに厳めしそうな顔を作った。
「多分越前くんも桜乃ちゃんのこと嫌いじゃないと思うよ。幽霊の感、まぁ霊感ってやつが俺に告げている・・」
そうしてもう一度桜乃に笑いかける。「上手くいくといいね」
なんだかその表情がやけに透明で(実際に彼は桜乃から見ても半透明なのだか)、一瞬だけすべてのことが頭から飛んだ。朋香とのケーキのことも、文化祭のお化け屋敷のことも、ホラー映画のことも、左手のことも。
(ああ、そうか。この人は・・)
・・・リョーマのことですら。



戻る|NEXT→4

inserted by FC2 system