「ああ、竜崎さん。お忙しいところご足労いただきました」
最近蛍光灯を取り換えたばかりの診察室はやけに明るい。ただ、明るすぎる室内は、清潔感を協調する室内の白さと相まって、酷く無機質な感じを与えていた。三十も後半になる男は、診療室の椅子に腰かけたまま、恐る恐る入室をしてきた夫婦に椅子を勧め、デスク前のモニターに電源を入れた。起動音がし、次の瞬間電源が入る。夫婦は首を伸ばし、モニターを食い入るように見つめていた。
この様子を見るだけで、この夫婦が娘を心から心配しているのがよくわかる。男は夫婦の表情に、生まれたばかりの自らの娘を思い出してしまい、思わず同情しようとしてしまう。慌てて首を振り、仕事のことを思い出す。医師としてどうあるべきか。伝えるべきは伝える必要がある。
「娘さん――桜乃さんのことですが、入院して一ヶ月経ちますが、病因はまだわかっておりません」
伝えた瞬間、空気が凍ったのがわかった。夫妻はハンマーで殴られたような表情になり、その後、夫はそれを怒りに替え、妻は悲しみに替えた。男は喉の奥に苦いものが張りついたような感覚を覚えた。・・・自分で言葉に出した癖に、と自嘲する。
「わからないって、この一ヶ月検査も何もしなかったんですか?!」
軽い混乱状態に陥っている妻に代わり、夫が声を荒げる。男はその言葉を神妙に受け止めると、モニターを指差した。マウスを手に持って、画面を操作する。
「これは娘さんのMR画像です。MRというのは、簡単に申しますと体内の輪切り写真のことですね。それからこちらはレントゲン写真です
男は淡々と事実のみを並べた。
「ほかにも血液検査など考えられるありとあらゆる検査を行ったんです。それでも何もわからない。・・・最初、入院されてきたときにあまりに華奢だったので、正直なところ拒食症を疑ったくらいです。ですが、娘さんは摂食障害ではない。少なくとも心理的な側面があるとは思えない。ただ」
そう言って男は別の資料を差し出した。何かのグラフのようなものが縦軸に何本もある。一部に赤いボールペンで印が付けられている。夫婦は声もなくその資料に目を落とした。
「これは娘さんの脳波記録です。脳波は一般的に成人は安定していますが、子供のころは乱れやすいんです。乱れたからと言ってすぐに悪いというわけではまったくないのですが。娘さんくらいの年代ですとまだ、少し乱れがあるのが普通です。ですが、この部分」そう言って男は印の部分を指差した。
「他の部分と比べて波形が大きくなっているのはわかりますか? このようなときには軽度の意識障害を起こしている場合が多いんです」
「ここに運ばれてくる前に、娘は倒れていたと・・・。まさか、それが原因で?」
「確かに娘さんは運ばれてくる際、頭部からの出血がみられました。ただ、それは非常に浅い傷です。先ほどご覧いただいたレントゲンや頭部MRでも、意識障害を引き起こすような内部出血なんかは見られないんです。一時的に強い衝撃で、とかならわからないでもないんですが、それも考えにくい。小さい腫瘍や毛細血管の詰りなんかでも引き起こすことがあるので、詳しく調べたんですが、正直どこも悪くない。全く正常です。それに、何より、意識障害であれほど痩せ衰えはしません。最近は食欲も少なくなってしまっています。覚醒時には少量でも食べようとしているのがわかるのに」
言いながら、男は自分が苛立っていることに気が付いた。一呼吸入れるため、息を吐いた。夫婦はそんな男の様子をじっと見つめている。
「娘さんが頑張ろうとしているのはわかるんです。でも、ただ、これ以上この病院では、彼女をサポートしてあげるだけの設備がない。・・・大学病院への転院をお勧めします」



転院先の大学病院でも検査を繰り返していたが、これと言った病巣は見つからなかった。最近は眠るばかりとなってしまった桜乃の傍に寄りながら、千石はぼんやりとその寝顔を見つめていると、南が伝えてくれた言葉が木霊する。頬につく髪を払ってやろうとし、しかしすり抜けてしまうことに今更ながら愕然とした。
桜乃が目を開けた。ぼんやりとした表情のまま、口を動かす。おはようございます、と言いたいのだろうか。千石が笑い返してやると、桜乃も嬉しそうに頬を緩ませた。
眠たげな目を擦って、桜乃はベッドから降りようとする。
「危ないよ」
「平気ですよー。寝てばっかりだと身体なまっちゃいますし」
そう言いながら、桜乃はスリッパを履き、点滴を移動用のスタンドにかけ直し、ふらふらとした脚運びながらも歩き出した。
「よいしょっと」
たまによろける桜乃に、千石はとっさに手を伸ばしかけ、やはり握り締める。無言のまま歩き続ける桜乃の後ろに、ただただぼんやりと付いて行った。
中庭に出ると、ちょうど空いていたベンチに腰かけた。手入れをされた庭に花が咲いている。時間は午後2時だ。午後から天気が崩れるという予報があったためだろうか、辺りには桜乃以外は誰もいなかった。
「もう少し天気が良ければもっと気持よかったんですけど」
などと呑気の呟く桜乃に、千石は声もなく頷いた。
千石は病院着から伸びた桜乃の腕に目を遣った。華奢というよりは骨の上にかろうじていくばくかの人体組織が付いているにすぎないその身体。隠れていて見えないが、胴体や足も似たような状態だろう。頬や唇の乾燥も酷い。それでも桜乃は笑っていた。
「・・・何が楽しいのさ」
え、と桜乃が聞き返すと、千石はもう一度声を振り絞った。
「何が、楽しいのかって聞いてんの! 俺は! 俺に心配かけたくないとか、そんな訳わかんないことで笑わないでよ」
きょとんとした顔つきになった桜乃は、その後、少し考え込むように首を捻る。
「いや、それなんか違いますね? あれ? いや、でもなんか嬉しいんですよね。この時間。一緒にいられるのが? 楽しいのかもしれない? あれなんか、これ」
桜乃は頬が熱くなるのを感じて、両手で覆った。熱を持ったためか、両目が自然と潤んでしまう。
「な、私、入院中に、なんてことを、すみません、色々。ああ、なんか困っちゃいました、どうしよう・・・」
ちらりと目線を千石にやると、呆気にとられたような表情をしているのが見えた。再び目線を明後日のほうに遣るが、頬の熱はどんどんと高くなっていく。酷く緊張してきて、頭がふらふらと回り出した。あの、だとか、その、だとか声を発すれば発するほどどつぼに嵌っているような気がしてしまい止まらない。
そんな桜乃の様子を見ていた千石は、最初痙攣する肩を必死に諌めようとしていたが、やがて耐えられなくなり、噴き出すように笑い出した。
奇声を上げながら笑い転げる千石に、桜乃は押さえていた頬を外すのも忘れ茫然としている。ひとしきり笑い終えると、笑い疲れたとでもいうように千石はため息をついた。
「涙出てきちゃった。桜乃ちゃん、俺とおんなじこと考えてるんだもん。俺も楽しかった」
そう言った瞬間、千石の足が砂のように崩れ落ちた。みるみるうちに崩壊が進む。
何もする時間もなく、もはや千石の姿は肩より上を残すのみとなってしまった。
「好きになってごめんね」
かろうじて半分だけ残っている顔面で、満面の笑みを作っていた。
「今までありがとう」
その言葉を最後に、千石の姿は消え去った。
手を伸ばすこともできずに、桜乃は茫然とベンチに座り込む。ややあって、思い付いたように立ちあがると、千石の姿があった場所まで数歩前に出る。
だが、そこには何もなく、千石の気配も感じなくなっていることがわかると、途端に足の力が抜けてしまい、立っていられない。その場にしゃがみ込んで茫然としていると、重さを増した鈍い空から、耐えきれなくなったように雨粒が数滴地面の上に落ちてきた。それがきっかけになり、降りだした大粒の雨が桜乃の肩を濡らす。
「うそ」
呟きを最後に、桜乃は目を閉じた。
襲ってきた強烈な眠気に、抗う術は、なかった。



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