「うん、桜乃ちゃん。これなら大丈夫。明後日には退院できるよ」
うれしそうに主治医に告げられ、桜乃もまた同じように微笑んだ。そのまま退室すると、両親に連絡を取るため院内備え付けの電話を利用しようとテレホンカードを取りに病室に向かう。
不意に良かったね、とささやく声が聞こえて、桜乃は慌てて振り向いた。だが、そこには誰もいない。気のせい、と結論付けると再び足を動かし病室へと向かう。目当てのものを見つけるとナースセンターの隣にある電話機へと向かった。
桜乃の体調は千石が消えたあの日から徐々に回復へと向かった。回復の切欠が千石だったというのは間違いないだろう。もしかしたら千石はこれを知っていたのかもしれない。だが、もう彼はいない。誰かに尋ねたくてもそれをすることも叶わない。
桜乃は考える。もしあのまま千石がずっと傍にいて、結局自分が死ぬことになったらどうしようと。
原因が彼だと知った時、彼を恨んだだろうか。
今は死から遠い状態になったせいかあまり現実味が湧かなかった。だが、確かに桜乃は命の危険が疑われてここに送られたのだ。腕に残されたいくつもの点滴の注射の跡がその名残だ。桜乃はそれを見るが、大した実感は湧いてこない。彼を慕わしく思う気持ちはあっても彼を恨むとは思えなかった。彼と過ごした数か月間、確かに桜乃は楽しかったのだから。今ですら会えるものならば会って話したい。だが、彼は夏に起きたバス事故の犠牲者だ。どうやって会えというのだろう。
退院したらとりあえずは千石の母校へもう一度行こうと決める。あの時であった少年ともきちんと話したかった。そして彼のことを知っているのであれば何か教えてほしかった。
桜乃は受話器を手に取る。テレホンカードが吸い込まれて行くのを確認すると、自宅の電話番号をダイヤルする。数度のコールの後に母の声が聞こえた。
「・・・お母さん、明後日には退院してもいいよ、って―――」



用件を話し終えると受話器を置いた。テレホンカードが返却され、それを手に取ると、病室へ帰ろうと桜乃は踵を返す。その瞬間、再び声が聞こえた。
「退院するの? おめでとう」
実にはっきりした声だった。どこかおぼろげな声ではない。空気を震わせ、それが鼓膜へと到達する。鼓膜が感じた波は電気信号となり、脳髄でそれが処理され、人の声だと認識する。桜乃だけに聞こえる声ではない。周りにいるだれもが聞く声だった。
嘘だ、と桜乃は思う。こうして振り向いて、また彼がいなかったら。怖かった。ただひたすら怖かった。彼の、千石の消失を覚えてしまうことが。
「・・・ほんもの?」
「うん、ほんものです。ごめんね、事故で死ななかったみたい。ずっとここに入院してたんだ」
鼓膜が震えた。嘘、とつぶやきながら振り返ると、確かにそこには懐かしい、影ではなく実体がそこにある。だいぶ億劫そうではあったが、その体を車椅子に乗せてはいるが、確かに。
「山吹中三年、千石清純です。・・・この姿では初めまして」
透けた肌ではなく、透けた髪ではなく、確かにそこに存在している。消えたりしない。握手を求めて差し出された手を桜乃は取った。触れることの叶わなかったそれは、少しだけ体温が高い。確かにこの皮膚の下に温かな血が通っているのだと、自分と同じなのだと実感できた。喉に熱いものが込み上げて来るのを感じると、桜乃はぬぐうこともせずにただひたすら涙を零し続けた。千石が少し慌てている。ハンカチを探そうとしているのだろう、だが、自らも入院している身でそんなものなど持ち合わせているわけもなかった。病院着の袖の袂でぬぐおうとしているのか、千石が腕を伸ばす。その手を桜乃は取った。本当に暖かい。そして触れたところから愛おしさが広がってくるようなそんな思いがして目を閉じた。
「竜崎桜乃です。・・・初めまして。ずっと好きでした」
俺もです、と千石は破顔した。



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