千歳の肩に手を廻した桜乃は、子供がする様な笑い方をした。しかしその手の平は、すっかり郭の作法が身についてしまったようで、肩に廻した手を男の昂りを引き出すようにゆるゆると動かしている。刃物が背中を撫でているような、取り返しのつかないことを自分たちはしているのだと、知っていながらもそれに溺れる自分たちを憐れむような、そんな縋り方をする女を、千歳は頬をこすりつけるようにして掻き抱いた。金を払って女を抱く以上、この行為に何の遠慮も必要ないはずなのだが、幼いころから見知った女だという事が、逢瀬を重ねるうちにふたりの消えることのない危惧へと育っていった。
柔らかな布団に沈みこんだ女は、華奢な両手を伸ばし、離れた男の頬を掴む。引き寄せられるまま口を寄せ、ひとしきり互いの舌を絡ませ合うと、障子越しの月光が照らす静まりきった室内には、そこかしこにふたりの荒い息が弾んでいた。だが、そこに言葉はなかった。肉欲の合間に、戯れにささやく互いの名前すらふたりの間で交わされることはなかった。やがて女の眉が切なげに寄せられると、男はその脚を割って自らの雄を潤んだそこへと押し入らせる。急にやってきた衝撃をやり過ごそうとして仰け反った拍子に見えた、女の白い首元に男は齧り付いた。女は短い呻きを発してみせるが、それすらも男の歓びへと変わるだけだった。それどころか、もっとその先を女も求めているようで、その呻きが甘い喘ぎに変わるのも、さしたる時間はかからなかった。このときばかりは、お互いがお互いのためだけにあるのだと確信できる。その喜びの中には熟しきった果実が発する甘い香りが漂っている。いつその果実が腐り落ちるとも知れなかったが、それでもこの熱に浮かされるまま求めることを辞められるはずもなく、男は夢中になって女の腰を掴み、女もまた男の求めに応えるように、肉と肉とを激しくぶつけあった。やがてその深いところに男の熱が吐き出されると、互いの心の中にあった危うげな意識すら焼き尽くした。虚ろに天井を見上げる女の目には、もはや何も映ってはいなかった。自らも同じように天井を見上げながらそう思う。ここに残る残骸は言葉通りの骸で、もしかしたら女は、桜乃はもう死んでしまっているのではないかとたしかに温かい腹に手を這わせながらそう千歳は思った。



「最初のころは、年季が明けた後のことばかり、考えていたんですよ」
桜乃が身体を起こし、窓へとにじり寄る。細い指を伸ばし、障子を開けると、夜にしては明るすぎる光が暗闇を照らした。千歳は開いた窓から覗く月が、満月であったことを知った。郭言葉を捨てた桜乃の姿に、千歳は不意に幼かったあの頃のことが胸に蘇った。
千歳の家と桜乃の家とは、田舎の藩に仕えて小録を喰む小さな家に生まれた。たまたま生家が隣同士だったためか、桜乃は年の近い千歳の後ろを、まるで実の妹のように四六時中、どこへ行くにもついて回っていた。千歳も、桜乃のことを本当の妹のように可愛がっていた。それは千歳が塾や道場へと通い始めた後も、ふたりの仲の良さは変わらなかった。千歳に妹が生まれても、三人で兄妹であるかのように仲がよかった。やがて桜乃が十一になった年に、親同士で千歳に娶せることに決めた。野原をかけずり回っていたころに負っていた日焼けが収まって現れたまだ幼いながらも整った桜乃の器量に、かなり格上の家からの縁談の話もあったのだが、桜乃の両親は頑として首を縦に降らなかったのだ。
しかし、楽しかった記憶が去るのも突然のことで、老齢の藩主が死んだあとに起こったのは、傾きかけていた藩の財政を立て直した有能な妾腹の息子と、歌人といった方が早いくらいの公家然とした正腹の息子の跡目争いだった。藩の有力者がそれぞれについたその争いは、とどまることを知らず、お互いがお互いを粛清し合うという凄惨な事態へと発展した。桜乃は、父親が反対派の手先として動いていたとの理由で処断され、取り潰しとなった。もはや罪人の家人となった桜乃たちは逃げるように藩を去って行き、その向かう先を知っているものはいなかった。千歳の家はそのまま残ったが、騒動のさなかに父親が死に、後を追うように母親と幼い妹も相次いで死んでいった。千歳自身も、不意の事故で片目をつぶしてしまい、藩の若手では随一と名高い彼に用意されていた藩の剣術師範の仕官の話もなくなってしまっていた。
千歳は江戸にいた親戚を頼って来たはいいものの、片目が使えず実家も取り潰し同然となった千歳を歓迎するものはなかった。ただ、裕福であったので、小さな長屋を借りてやり、どこから話をつけたのかはわからなかったが、用心棒代わりの商店の手伝いという仕事を与え、千歳を厄介払いをするように追い出した。はじめは嫌々だったが、始めてみると千歳の気質に合っていたようで、案外楽しく続けられていた。だが、所詮は仮初のものだったようで、それが崩れたのは友人に連れられて行った遊郭で出会った一人の女のせいであった。
過去を振り返っても仕方のないことだと千歳は十分に分かってはいたが、自分だけが知るはずだった桜乃の肌を、自分以外の男にも暴かれているのだ、という純然とした事実は覆すことが出来ず、流れの中に沈む澱みとなって深く苛んでいる。美しく成長した桜乃の姿は惚れ惚れとしてしまうほどだが、この美しさはこの郭の中で、商品として見も知らぬ男のために磨かれたものなのかもしれない、と千歳は思った。ぼんやりとした瞳が千歳を映す。触れればすぐに乱れ始める吐息を思い出すと、再び劣情が沸き上がる。だが、今はただ、目の前にいる桜乃の温もりを得ることだけを考えて、立ち上がり傍によると、小さな身体を包みこんだ。
「あのころ、本当に楽しかった」
そう問う桜乃の声に、千歳はその身体を再び抱き寄せた。ふたりの臭いが残る布団に桜乃を沈みこませる。
「年季が明けたら一緒に暮くらしたらええ 」
途端に桜乃が噴き出した。おかしなことを言ってしまったのだろうか、と千歳は考えるが、ただ黙って桜乃が別の反応を返すのをじっと見守っていた。
「すっかり、別のしゃべり方が板についてしまったんですね。お世話になっているお店が上方のほうなんですね」
昔は自分も同じ喋り方をしていたはずだったが、思い出せない。あの幼い頃の思い出はもうあんなに遠くに消えてしまったのだと改めて千歳は理解した。桜乃は再び笑い、千歳の頬に指を寄せた。
「今度、私、落籍されるんです」
年季明けまで勤め上げ、晴れて自由の身となることを夢見なかったわけではない。だが、この勤めにしがみ付き、千歳だけを心の支えにするにはそれまでの長い間を耐え抜ける自信がなかった。それに、桜乃を身請けするためには大枚の金が必要だ。その金は店を、ひいてはこの町を潤す水となる。もはや自分一人の問題ではないことを十分に桜乃は理解していた。
細い指が千歳の瞼に触れた。視力のほとんどない瞼へ。おどろくほどその指は冷たくて、背筋に寒気が走った。
「片目だけやから駄目なんや。両目とも、潰れてまえばよかった」
桜乃はそっと微笑んで目元に唇を寄せ、あふれた涙を啜り取った。違いますよ、と呟いた。
「……再会しなければよかったんでしょうね。そうすれば、もっと穏やかでいられた。あなたも、私も」
吐息を吐くように、そっと洩らされた言葉は、千歳がその意味を理解する前に闇に溶けて消えてしまう。
「そちらは蛇の道です。そちらへ行ってはいけませんよ、…千里さん」
桜乃が口にしたのは、子供のころから呼んでいる千歳の名前だった。桜乃がそのか細い指先を伸ばして頬に触れようとするが、目的を達す前に千歳の手で払いのけられた。再び激しく沸き起こったものが、怒りとも情欲とも知れず、急かされるまま千歳はその唇へと噛み付いた。



すでにその身体は冷え切っていて(2009/10/12)

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