待ち合わせ場所に、指定時刻から五分遅れで辿り着いた俺は、すでに到着していた少女の姿に瞠目した。 俺の到着に気付いたらしい少女が振り返る。頭にまかれた包帯の色が、少女の濡れたような黒髪に映えていた。その瞳は、右目が同じように白い眼帯に隠されている。右頬は白いガーゼで覆われているせいで顔の半分が包帯に喰われたように白くなっていた。右腕は応急処置だろう、何かの棒切れを固定のために使いながら包帯でぐるぐる巻きだった。肘から折り曲げた状態で首から大きな三角巾で吊っている。膝にもまた大きなガーゼがその華奢な膝を覆っている。
近づいて来ようとする少女をその場に押しとどめ、俺は慌てて駆け寄った。そして彼女の爪先から、ほんの数歩も離れていない場所に窪みがあったことに気付く。その一メートル先には、工事現場につきものの鉄材が数本。あのまま歩かせていたら見事にこの窪みに足を取られ、鉄材によってますますひどい怪我を負うことになっただろう。そんな事態を回避できたことに、俺は一人安堵の息を付いた。
少女が見上げてくる。犬のように大きな瞳に俺が映っていた。少女の一日を問いただすべく俺は口を開く。
「…今日は」
言いかけて俺はすぐさま訂正した。
「今日も一体どんな不幸に巻き込まれたのさ」
俺の言葉に目の前の少女はむっとした表情になる。それを隠そうともせずに、反論するべく口を開いた。
「『不幸』かそうでないかは結局のところ主観でしかないと思います。千石さんに今日の私の身に起きた出来事を『不幸』の一言で片づけられたくありません」
精いっぱいの睨み顔を向けてくるが、俺の目線より随分下のせいで怖くもなんともない。強いて言えば小型犬がきゃんきゃん吠え付いてくるような微笑ましさだ。
「はいはい、わかったよ竜崎さん。で、今日は一体何があったのさ。随分怪我してるようだけど」
俺は少女――竜崎さんの頭に手を遣った。包帯が巻かれている部位には触れないようにしてその滑らかな髪の毛を撫でた。竜崎さんはしぶしぶといったように話し出した。本題が片付かないということに気が付いたのだろう。
「…今日、理科の実験の最中、男子がふざけて棚にぶつかったら、棚の上にあった硫酸が倒れて来て」
いきなりのクライマックスに俺は思わず息を呑んだ。その頬のガーゼは硫酸での火傷とかのアレですか?!
竜崎さんはそんな俺を気にせず、無事な左腕を頭の上に上げて日差しを避けるようなポーズをした。
「で、こんな感じで両腕でガードしました。右腕はちょっと掛かっちゃったみたいで火傷してしまったんですけど」
寸でのところでのスプラッタ回避に俺は安堵の息を付く。しかし竜崎さんの話は終わらない。
「火傷は保健室でガーゼ当ててもらって、学校終わったら病院に行こうと思ったんです。あんまり痛くなかったですし。午後は体育祭の準備だったんですが、こっちはあんまりドラマチックじゃないんですけど、普通に転びました。で、このザマです」
あっけらかんという竜崎さんに俺は溜息をついた。
「普通に転んだだけで右半身が包帯ぐるぐる巻きになる人はいないよ」
「いや、千石さん現実を見てください、いますよここに」
俺は竜崎さんのつむじを親指で押した。
「あ、ちょっとつむじは止めてください、禿げちゃいますから。…わかりました、もう少し詳しく話しますと、準備のために重ための荷物を持ったまま階段を下りてて、足を踏み外したんです」
話したんだからもういいじゃないですか、と竜崎さんは俺の手を頭上から払った。俺は払われた手を竜崎さんの肩に回す。竜崎さんはさきほどからされるままだ。単に俺の挙動に呆れているだけなのかも知れなかったが。
「普通に一番上から転げ落ちたにしては軽症の部類じゃないですかね」
どうだと誇らしげな顔を俺に向ける。これがドヤ顔か、と俺は半目になりながら竜崎さんの頭を撫でた。
竜崎さん曰く一番の重傷は骨折したらしい右腕らしい。それから頭の怪我。右目の眼帯はどうやら瞼を切っただけ、膝のガーゼは単に擦りむいただけという。
うっかりでは済まされないレベルの失態にも関わらず、竜崎さんは呑気に笑っていた。
「一歩間違えばそのまま死んじゃうかもしれないんだから、もう少し気を付けてよ」
「大丈夫ですって」
へらりと笑う竜崎さんに苛立ち、俺は彼女の左頬を、ガーゼが覆っていない頬を抓った。
痛みに左目を潤ませながら、竜崎さんがひゃいひゃいと呻く。頬を離してやると、すぐさま竜崎さんは左手で頬を覆った。
「なにも抓らなくても…」
とぶつくさ呟いていたが、睨む俺の視線に気付き肩を竦めた。
「…わかりました、わかりましたよ。でもあの、まだ『残って』ましたし。大丈夫かなって」
まだ言い訳を続ける竜崎さんに、意地悪な気持ちが浮かんで来る。俺は性質の悪い笑みを浮かべて竜崎さんを試すように言葉を投げた。
「へぇ、じゃあまだ平気なの? じゃあ、まだいいよね、補給。じゃあ俺、見たいテレビあるし今日はもう帰るね」
肩から手を放し、俺はその場を立ち去ろうとする。
次の瞬間、竜崎さんの左手が俺の手を逃がすまいと掴む。
「や、ちょっと待ってください。それはちょっと、困るかな、っていうか」
へえ、と俺はにやにやとあまりよろしくない笑みを浮かべる。客観的に見たら怪我を負った幼気な女子学生を虐める不良男子学生でしかない。誰かに見られたら通報モノだろう。そうでなくてもご近所から後ろ指を射され、両親の罵倒が待っている。そんな自明のこと、誰でもわかる。俺ももちろんわかった上でのことだ。
しかし実際にはそんなことは起こりえない。なぜならばそれらはすべて『誰か他の第三者に発見されて』起こる事象だからだ。竜崎さんと俺しかいないこの場に於いては起こりえない現象なのだ。そして『偶然通りかかる都合の良い誰か』、なんて俺に都合の悪いものも現れるわけはない。全く以て、追い詰められた可憐な女子中学生である竜崎さんの不幸はそこに起因していた。
「ていうかほとんど切れかかってるっていうか。その、ごめんなさい。…本当はもうほとんど残ってないんです。お願いします…」
半べそ状態なのだろう。俯いた竜崎さんがやっとの思いで絞り出した声は震えている。俯いているせいで俺からは見えないが、外気にさらされた左目に溜まっているであろう涙に、さすがに良心が痛む。
「ごめんごめん。冗談だってば。ちゃんとあげるから」
ほら、と元々緩めていた詰襟の胸元をさらに緩め、竜崎さんに首筋を示した。竜崎さんの口元に当るように上半身を傾ける。しゃくりあげていた竜崎さんの動きが止まったのを感じた。
竜崎さんがごくりと唾を飲み込む。あ、と小さく声を漏らし、そしてふるふると首を振って竜崎さんは唇を引き結んだ。
「さっき意地悪したお詫びだから」
俺の気が済まないから、と理由を付けてやり竜崎さんを促すと、二、三度の躊躇いを見せた後、ようやく唇を軽く俺の首筋に押し当てた。





それまでの俺は、世界は限りなく平等なのだと信じていた。
多少の巡りの悪さ、幸不幸などがあるとしてもそれは本人の努力次第で何とかなるとそう考えていた。なぜならば俺自身がそうだったからだ。
歴史の年号暗記は苦手だったが、それ以外の勉強に関しては多少の努力で合格点を取ることができたし、いつぞやか始めたテニスでは繰り上がりではあったがジュニア選抜にまで選ばれた。
「人間には『幸運』に恵まれた人とそうでない人がいるんですよ」
その日、学校の応接室に呼び出された俺に向かって、山吹中学男子テニス部顧問の伴田幹也、通称『伴じい』はそう言った。
「勿論、千石君の努力を全て『幸運』の一言で片づける気はありませんよ。君の学業成績や今まで培ってきたテニスの経験はすべて君の努力の賜物です」
突然の言葉に瞠目する俺に、伴じいは、その何を考えているのかわからない表情を崩さずに続ける。ソファの座り心地が良いことだけをやたらと強く感じていた。 「でもね、君は今までトスを外したことはないでしょう。こればかりは『努力』では片付けることができないんです」
ガラステーブルを挟んだ向かいには、スーツ姿のがっしりとした体格の初老の女性と少女が並んで座っている。少女は俺と伴じいのやり取りを興味がなさそうな表情で見つめていた。肉付きの悪い棒切れのような四肢を緩めずに、背筋を伸ばし姿勢よく腰かけるその姿は、その無表情も相まって等しく人形のようだった。人形と異なっているのは、皮肉にも少女の頭の包帯と右目を覆った眼帯、大きな三角巾で首からぶら下げられた右腕だった。白い包帯が毒々しいほど目についた。
「心当たりはありませんか? …君が買う宝くじは毎回結構な高額当選をするようですね。あとジャンケンもやたら強い。くじ引きも毎回狙った場所を引けるとか。あ、そうそう、ジュニア選抜のことだって、手塚君が―――」
伴じいの言葉を少女の祖母がよく通る声で遮った。体育教師だという少女の祖母は年齢に似ない闊達な人物のようだ。
「ジュニア選抜の件は手塚の自業自得だ。千石君が自業自得の手塚の馬鹿に変われる位置にいたのはそれこそ彼の努力の賜物、実力だろう? 相変わらず性格が悪いな。いい加減いい歳なんだ、落ち着いたらどうだ? 千石君を追い詰めたいのか?」
伴じいとは旧知の仲なのだろう、遠慮のない口振りで切り捨てた。威勢の良さに首を竦め、伴じいは一瞥して目の前の湯飲みを手に取り喉を潤す。
「どうやら私ではやはりうまく説明できないようですね。竜崎先生からお願いできますか?」
ああ、と『竜崎先生』は俺に向き直った。そして、自己紹介がまだだったね、と活発な笑みを浮かべる。隣に座る、いまだ表情らしきものを浮かべない少女との落差が目についた。
「アタシは竜崎スミレだ。青春学園中等部の体育教師を務めている。男子テニス部の顧問だから、君のことはよく知っている」
手を差し出され、慌てて握手をした。力強い掌だった。
「突然すまないね。伴じいの説明が下手くそのせいで、誤解をさせるところだった。これから、突拍子もない話をするが、全て真実だ。済まないが、そういうものだと理解してもらいたい」
はあ、と俺は首を傾げる。そんな俺に竜崎先生は笑顔を浮かべた。少女は微動だにせずぼんやりと前を見続けている。
「実はアタシにもうまく説明が出来ないんだが、人間には『運』というものが重要らしい。『命運尽きた』という言葉があるだろう?」
「時代劇とかで戦国武将が追い詰められた最期の時によく言うような種類の言葉ですね」
いまいち理解が追いつかない俺の代わりに伴じいが答える。不安げな表情を浮かべていたのか、伴じいは俺に向かって微笑みかけた。普段から笑っているような顔をしているせいで判別は付きづらいのだが。
「『運』は波のようなものらしくてな。良い時はとても良いし悪い時はとても悪い。君にも覚えがあるだろう? 良い日ばかりでなく、なんとなくタイミングが悪いことが続く日が」
「確かに、あります。傘忘れた日に限って雨が降ってきたりとかですけど」
竜崎先生は満足気に頷いた。しょうもない話ではあるがこれで合格らしい。
「ただ、悪い日ばかりではない。悪い日もあれば良い日もある」
人生楽あれば苦もあり。水戸黄門か、とツッコミを入れたくなったが、ぐっと我慢した。
「水戸黄門ですか、竜崎先生」
折角我慢したツッコミを伴じいにとられた。少し悔しさを感じて伴じいを見ると、膝の上に置いた拳で俺に向かって親指を立てている。心底うっとおしいため、見ない振りをした。
「…伴じい、お前…。まぁ外れているわけではないが…」
竜崎先生は半目になりながら伴じいを見る。咳払いをすると再び語りだした。
「要は『運』は減ったら減りっぱなしというわけではなく、基本的に生きている限りは補給できる。空腹を感じたら食事を取るようにな。普通であれば減った運は個人差はあるがそのうち自然と回復する。普通はな」
やたらと『普通』を強調する。竜崎先生は隣に座る孫娘を見た。彼女の頭に手を伸ばし、撫でてやろうとする。しかし孫娘はそれを拒む。事もあろうに祖母の優しい手を払い除けたのだ。
そして距離を取るようにソファの隅に腰を移動させ、その場で身を竦めた。竜崎先生は払われた手を痛ましげに見詰めている。俺はその光景に思わず立ち上がった。
「ちょっと!」
声を上げた俺に孫娘はその華奢な身体を跳ねさせる。小さな身体をより小さく丸めながら、びくびくとした卑屈な視線を俺に向けた。
「千石君、落ち着きなさい」
伴じいが止めようとするのを振り払って、俺は少女の手を掴んだ。
「ちょっと、さっきのないんじゃない? 竜崎先生、きみの事思ってくれてるだけでしょ? 手払い除けて、謝りもしないのって、普通に酷いんじゃない?」
「千石君、違うんだよ。この子は、…桜乃は」
竜崎先生が困惑したように俺と孫娘を引き離そうとする。しばらくやり取りを続けていると、か細い声が少女から漏れた。
「…ごめんなさい」
酷く怯えたその声に、思わず少女を見る。覗いた左目から、ぼたぼたと涙が零れていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。だからお願い、手を放して」
譫言のようにただひたすら繰り返し懇願する少女に、俺はバツの悪さを感じ、掴んでいた手を乱暴に放した。するとその手を胸元に押し付け、仕舞い込む。零れる涙を拭こうともせず、その顔を怪我のない左腕で覆ったまま、より小さく身を竦めた少女はその身体をソファの腕掛けに凭れさせた。それをするのが精一杯だと全身で主張している。痛ましさに罪悪感を感じる。
黙ってソファに座りなおした俺に、竜崎先生は再び笑いかけた。その笑顔に苦いものが混じっていたのを見て、俺はいたたまれずに視線を逸らした。
竜崎先生は孫娘に手を伸ばした。背中に掌を置き、宥めるように撫でてやる。
「だめ、おばあちゃん、さわらないで。おばあちゃんまで」
そう言って、少女は何かを堪えるように息を押し殺した。しばらく竜崎先生はそのまま撫で続け、そうして少女が反応を返さないことに溜息をついて撫でるのをやめた。可哀そうなまでに強張っていた少女の肩の力がようやく抜けた。
「千石君」と竜崎先生は俺に視線を向ける。「さっきアタシは『普通であれば回復する』って言ったね?」
突然の質問に、俺は驚きながらも頷いた。
「アタシの孫娘、桜乃は違うんだよ。…回復しないんだ」
意味が分からずに返事を返しかねていると、竜崎先生は苦笑いをした。
「アタシの家系はね、たまに女の子にこういう子ができるのさ。アタシの叔母に当たる人がそうだったようでね。結局長生きできずに、六歳で亡くなったらしい。叔母も誰かに触られるのに酷く怯えていたらしい。『運を吸い取る』のだといってね」
背筋に冷気が走る。思わず背中を伸ばした。俺は今だ怯えたままの少女を見る。目の前の少女の背中に、何か恐ろしいものが憑いているような、そんな光景が目に浮かび、慌てて目を擦る。
「『運』には個人差がある。基本的に人が生きていくに問題がない量を五十とするなら、百も二百もためておける人間がいる。めったにいるわけではないが、偶然見つけたのが千石君、きみだ」
竜崎先生は俺に向かって土下座をせんばかりに頭を下げた。
「この子がこうして怯えだすようになったのは昨年、この子の両親が事故で意識不明になってからなんだよ。この子が言うには、両親の『運』を吸ってしまったから事故に巻き込まれたんだと主張するんだ。実際それで、おそらくこの子が両親から運を吸うのをやめてからしばらくすると、こうして怪我が絶えないようになってしまった。アタシはさほど運を持っていないらしくてこの子は吸ってくれないんだ。
…本当はこんなこと無関係の君に頼めるはずもないことは十分承知している。だけど、アタシはこの子がかわいい。どうか、この子に君の『運』をほんの少しで構わない、分けてやってくれないだろうか」
必死の懇願に、俺は思わず伴じいを見た。飄々としたいつもの伴じいだった。
「やめてよ、おばあちゃん!」
少女が叫ぶ。その瞬間に、ソファの腕掛けが壊れ、少女はバランスを崩して倒れこむ。ソファから木枠がむき出しになり、しかもそれに脇腹を傷つけられたらしく、少女は呻いた。咄嗟に患部に当てた左手では隠せなかった血の滲みが見えた。伴じいが近くの電話に駆け寄り、慌てて救急車を呼ぶ。
「ねえおばあちゃんやめてよ、やだよ、私またお母さんとお父さんみたいに人殺しちゃうよ、死んだほうがましだよ、ねえ、やめよ」
泣きながら彼女は彼女の祖母に告げた。竜崎先生もまた涙を浮かべているが、必死の孫の懇願にどうしようもできないらしい。ややあって、少女は落ち着こうと溜息をついた後、俺に向き直った。
「…突然、おばあちゃんがごめんなさい。今言ったことは忘れてください」
ぺこりとお辞儀をした。長い三つ編みが跳ねるのを只々見守るばかりで俺は何もできないでいる。
痛みを感じていないのか、少女は竜崎先生を伴ってその場を出て行こうとする。伴じいがそれを呼び止めて、せめて救急車に乗るように少女を説得していた。
少女の額に浮いた脂汗が見えた。心なしか顔色も悪い。元々色白のようだが、今は白を通り越して紫色だった。プールにつかり過ぎた後のようだとふと思う。
「…竜崎、さん? 最後に、質問いい?」
俺は返事を待たず、ソファから立ち上がり竜崎さんの前にしゃがみ込んだ。見上げた竜崎さんは、状況についていけていないのか周囲を盛んにきょろきょろと見渡している。
「あ、はい。…どうぞ」
返事があったことに安堵する。へらりと笑うと、竜崎さんは怪訝な顔をした。ああ、やはり思った通り、表情があったほうがずっと可愛い。俺は可愛い子が大好きなのである。大好きな可愛い竜崎さんのためならば、余っている(らしい)俺の運などくれてやるのもやぶさかではない。
しかしかといって無条件というのも竜崎さんのほうは気に病むのではないか。そう俺は思い、だから交換条件を出すことにした。
「吸わせてあげるから俺と付き合ってくんない?」





今日の怪我が同じ箇所の怪我だったせいか、初めて竜崎さんと出会って吸わせた日のことを思いだす。
当時小学生だった竜崎さんに告白したときの伴じいの非難の眼と、何とも言えない表情をしていた竜崎先生に見守られたあの時間は、二度と思い出したくない時間の一つだ。
竜崎さんは触っただけでも相手から『運』を吸い取ることができるらしいが、基本的には口元からの摂取が一番効率が良いらしい。それを知った俺は、それから竜崎さんにこうして口元で『運』を吸わせている。恥ずかしがる竜崎さんの様子を見れるのと、実際に首元にキスされるという精神面肉体面合わせて満たせるという何とも一石二鳥な案なのだ。
一度、口は嫌だと主張する竜崎さんに、ならばと手繋ぎを試してもらったことがあるが、満足するまでに数時間掛かってしまいあえなく諦めたことがある。どうやら身体の中心部(心臓だろうか?)の辺りを触ればもう少し早く吸えるようなのだが、それでも一時間程度はかかってしまうようだった。俺のお胸を竜崎さんの可憐なおててが一時間撫で擦るというのも悪くはないのだが、彼女が耐え切れなさそうでお蔵入りさせた。色々試したが、彼女が口から俺の首筋を吸うのが数十秒で終われて一番時間が短かったため、現在のところはその方式で吸ってもらっている。
ぶっちゃけマウストゥーマウスを俺としては試したいところだったのだが、「それならもういいです」と言われかねない。俺としては首筋より健全な気もするのだが、竜崎さんの中のボーダーラインがよくわからない。しかしながらいつかは試したい案であるので、いずれご提案させていただく所存である。
考え込んでいるうちに、今日の『食事』が終わったらしく、竜崎さんの唇が俺の首筋から離れた。
「……ありがとうございました」
恥ずかしいのか、口元を抑え、しかし真っ赤な目元は隠せずにそう竜崎さんは礼を言う。
「お粗末さまでした」
俺が首元を整えるのを竜崎さんはじっと見つめ、そして溜息をついてハンカチを差し出した。
「…一応、拭ってください」
「どこを?」
「ええと、その、首です」
「首の、どこを?」
「ですから!」
わかったわかった、と俺は竜崎さんからハンカチを受け取る。真っ赤になるのを見ているのも面白いけれど、機嫌を損ねさせたい訳じゃない。その華奢な身体からは想像もつかないほど頑固な竜崎さんは、怒ると後が長い。比喩でなく死ぬ寸前まで会ってもらえなかったりするのだ。勿論死ぬ寸前なのは竜崎さんなのだが。
ハンカチを使って俺は首筋の、竜崎さんが吸い付いた辺りをごく軽く触れる。そうしてありがとうとハンカチを付き返す。
「ちゃんと拭いましたか?」
「拭った拭った」
嘘であーる。だって折角の竜崎さんの体温だ、もったいない。
訝しげに睨む竜崎さんの視線をやり過ごしているうちに、彼女は諦めたのか溜息をついた。何度もこのやりとりを繰り返しているわけだが、いい加減諦めればいいのにと思わないわけでもない。
ハンカチを鞄にしまう竜崎さんに、俺は声をかける。
「とりあえずさ、病院行こうよ。どうせそれ、応急処置しかしてないんでしょ?」
剥れた顔を竜崎さんはするが、しかし全く怖くない。というより面白い。可愛い。次第に竜崎さんは怒りだした。彼女を宥めるどさくさに紛れ、俺は竜崎さんの怪我を負っていない左手を掴んだ。いわゆる恋人掴みだ。指と指をしっかり絡める。竜崎さんの小さな指は、俺に成されるがままだ。
「…結構吸ったのに、もう回復してるんですね」
竜崎さんはどうやら人の持っている運の総量が見えるらしい。俺は竜崎さんに『運』を提供したから減ってしまうのではと勘違いしていたが、どうやらそういうものでもないようだ。
「俺ってどれくらいの量なの?」
「…出会ったときはおばあちゃん五人分くらいで、今はおばあちゃん五十人分くらいです。…ありえないんですけど。別におばあちゃん、他の人に比べて小さいってわけでもないのに」
五十人の竜崎先生を思い浮かべてしまい、少し辟易とする。
「なんでこう、『運』がいいんですかね千石さんは」
「さぁ、知らないけど、幸せだからじゃない? 可愛い彼女もできたし」
竜崎さんは人のことを思いやれる優しくて素直で親切な子だ。しかし頑固でめちゃくちゃな恥ずかしがり屋だ。ああもう面倒臭い。でも可愛い。だからとっても可愛い。そしてそれは多分俺しか知らないのだ。
竜崎さんはぷいと顔を背けた。しかし俺に、真っ赤になった耳元が丸見えになったことに気付いていない。
「知りません、ばか」
竜崎さんの指元に力が籠った。俺の頬は緩む。どちらともなく歩き出した。
―――とりあえずまずは病院に。



つまるところ彼が幸せな理由は(2013/05/25)

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