いまどき珍しいくらいの重厚な日本家屋の前に立ち尽くし、千石はしばし途方に暮れていた。
目の前で存在を主張するインターフォンは、外界を遮断するような威圧的な漆黒の門構えの中にあって異質な存在だということをことさらに主張しているように見える。それは、ぼんやりと立ちすくんでいる千石もまたおなじだった。妙な親近感を感じながら、ベージュ色をした安っぽいプラスチックの四角い真中にボタンに指を押し立てた。明るく、しかし間の抜けた音を響かせて、先ほどから存ぜぬを決め込んだような重くて静かな屋敷へ来客を告げた。しばらく千石は様子を伺うが、屋敷から人の動き出す気配はいつまでたってもしなかった。おそらく時間にしてみれば五分も立っていないだろう。だが、ここに来る前までせまい安アパート暮らしを余儀なくされていた千石にとって見たら、時代劇そのままのこの家屋は見ているだけで気が滅入ってくる思いだった。
半年前に卒業した高校での元担任の竜崎スミレからは、今日この時間に来客があるということは連絡済みだ、とそう聞いていた。ならば自分が間違えたのか、焦れたようにスミレから渡されたメモと、取り出した携帯電話の待ち受け画面に表示されている日付と時刻を見比べる。スミレの角ばった文字と、携帯の液晶に表示されている文字に差異がないことを確認し、もう一度千石は首をひねりながらインターフォンを鳴らした。が、二度目に鳴らした音にもいつまでたっても返答がない。
相変わらず目の前に屋敷は静かにたたずんだままだった。まるで目の前にいる人間になど見向きもしないというように。千石は手のひらに握りしめた携帯電話に視線をおとした。当然、携帯電話はなんの着信も伝えてこない。たすき掛けにした荷物満載のショルダーバックの肩ひもが容赦なく喰い込んだ。たった二週間の地上での生活の間に子孫を残そうと、必至に蝉は泣き叫ぶが、今の千石にとってはただの騒音以外の何物でもない。苛立ちが募るさなか、さらにこめかみから流れ落ちた汗が首筋を這う。ねっとりと張り付くような汗には不快感しか感じられなかった。この夏最高を記録ようとする太陽の日差しにとうとう、千石は耐えかねたように扉に手をかけた。
押した力そのままになんの抵抗もせずに門があいてしまって、千石は少し驚くが、敷地内に踏み入れた足を止めることはしなかった。両手に荷物を入れたカバンの持ち手を握り締めたまま、門から玄関への道を歩む。門の外から見た外観も凄かったが、門の中から見た様子もまた現実離れしていた。門から玄関まで道ができている。しかも二歩三歩足を延ばせばすぐに着くといった短さではなく、十数歩は歩く必要がありそうな長さだった。門の中から自分がこれから尋ねるべき家屋を見やると、まるで建物に威圧される様な感覚をおぼえてしまう。一度そんなことを考えだすと、道に連なる植木からも威圧感を感じてしまい、千石はいまさらながら、スミレの勧めに飛びつきここにきてしまったことを盛大に後悔し始めた。
スミレからはこの家に住む人間の身の回りの世話のアルバイトということでこの家を紹介されていた。何でもこの家に一人で住んでいる親戚の世話をして、さらには勉強も見てもらえるらしい。国内最高峰の学府を卒業し、アカデミックな職業に就いている人間らしいというので、大学受験を控えた千石にはアルバイト料も入り、一石二鳥だと飛びついてしまったのだ。だが。
女だということは聞いていたが、こんな前時代的で尊大な家に住んでるのは、厭味でヒステリックで人を小馬鹿にしたついでに化粧の濃いオバサンだろうと、千石はため息をついた。だからと言っていまさら別の場所に厄介になるという選択のない千石は、たどりついてしまった玄関のインターフォンをため息とともに鳴らした。思い気分とは裏腹の軽やかな電子音が鳴り響くが、だが、またここでも返答は特にない。引き戸に手をかけると、ここには鍵がかかっているようで、開かなかった。仕方なしに千石は声を張り上げる。
「こんにちはー、すみませーん、竜崎スミレ先生から紹介された、千石というものですけれどおー。竜崎さんのお宅だと伺ってきたんですけれどおー」
「はい、なんでしょう」
背後からした声に千石は驚き振り返った。そこには千石よりだいぶ小柄な若い女性の姿があった。お手伝いさんだろうか、両手にぶら下げたスーパーマーケットの袋からあふれんばかりの食材をのぞかせたまま、女は千石に笑いかけた。
「千石清純さんでいらっしゃいますか」
柔らかな声で尋ねられ、千石はとっさにうなづき返すことしかできなかった。
「ああ、すみません。買い物に時間をかけてしまってお出迎えすることができませんでした」
女の左手にまとめようとしていた右手の荷物を受け取ろうと千石が声をかけると、女はもう一度やわらかい笑みを浮かべ、謝罪をした。思わず千石は赤面する。そんな千石を見やり、もう一度曖昧に女は笑い、肩にかけていた小さなカバンから取り出した鍵で玄関の扉を開けた。屋内の座敷の座布団の上に千石を促し、用意をしてきます、と女は姿を消した。静かな足音を立て、女が奥に引っ込むと、千石は正座をしていた足を崩し、仰向けに寝ころんだ。
外観といい、この室内といい、こんなに重厚な造りだと気が張ってしかたない。しかもさっきも見たとおり、どうもこの家ではきちんと家政婦を雇っているようだ。ドラマで見るような、初老の女性ではないようだが。スミレには「身の回りの世話」ということで結構なアルバイト代を提示されてここにきているはずだが、と千石は考えを巡らせた。まさか、「屋敷の主人の身の回りの世話」の内容が実は、

(若いツバメ的なR18的内容につき表現禁止)

なんてことだったりしないだろうか。いや、一夏のドッキリ経験にしてはタチが悪すぎる。笑い話にもできないような夏の経験を拵えるだなんてことは。まさか、教師までもがグルなんてことは、ないだろう、・・・多分。
そうであってほしいと祈りにも似た思いをめぐらせていると、襖の奥から先ほどの手伝いの女の声が聞こえてきた。慌てて千石は起き上がり、足を元の正座にした。
ややあって女が入ってくる。床の間付きの座敷に劣らない卓袱台の上に千石の分の茶を置き、もう一つ用意した茶を真向かいに置いた。女は茶菓子も一緒に持ってくるつもりだったようだが、それを忘れたらしく、また奥に戻って行った。それからすぐに戻ってくると、よく冷えた水羊羹を千石に差し出した。
「頂き物ですが、どうぞお召ください」
そう言って女は当然のように千石の真向かいに腰をおろした。主人の代わりに女が千石を迎えるということなのだろうか。千石はさしたる疑問も持たずに、頭を下げた。
「千石清澄と言います。竜崎先生より紹介されました。こう見えても家事は一通りできますので、よろしくお願いします」
「お若いのに、感心ですね。お話はお伺いしています。よろしければお茶もどうぞ」
女に言われるまま、千石は茶に口をつけた。程よくぬるい茶が、暑さで乾いた喉にちょうどよかった。おいしいです、というと、女はにこり、と先ほども見せた笑みを浮かべ、お口にあったようで、よかったです、とそう言った。
「あの、ご主人、竜崎、桜乃さんは何時頃にお帰りでしょうか? あと自分は何をすればよいでしょうか」
おそらく、同じお手伝いの一人として彼女の世話になることは間違いないだろうが、やはりオーナーであるこの家の主人に挨拶をしないと仕方ないだろう。厭味なオバサンだろうがなんだろうが、女性への呼びかけに「主人」という言葉を使うのが正しいのかどうか、あいにくと千石にはわかりかねたが、とりあえずそのように聞いて、目の前の女の反応を伺う。案の定、虚を突かれたような呆けた顔をしている女の表情が見える。「主人」ではなく「奥様」のほうが正しかったのだろうか。だが「竜崎桜乃」は夫もなく女一人で暮らしていると、確かスミレは言っていたのだから。
「すみません、変な言葉づかいしていたら注意してもらえますか・・・」
「いえ、少し驚いたもので」
と女は苦笑いを浮かべながらお茶を一口啜った。
「とりあえず今日のところは荷物の整理をしてしまってください。千石さんに使用していただく部屋も用意してありますので。家事の分担は明日からお願いしますね。
もちろん受験生ということをお伺いしているので、勉強の方を最優先してください。家事負担のせいで大学受験に失敗したなんてことになったら、私が竜崎先生に怒られてしまいますから」
「あ、すみません、ありがとうございます。俺、覚悟はしてたんですけど、桜乃さんって、こんな家に住んでるくらいだからめちゃくちゃ怖い人なんだろうなあって」
「きちんとお会いしたこともないのに、怖そうに思われますか」
女は笑った。だが、どこかからかうような笑いに、千石は、愛想笑いを浮かべることしかできなかった。
「いえ、俺の想像です。竜崎先生からはどんな人か、っていうのは詳しく聞かなかったんです。バイト代とか、聞いた瞬間に舞い上がってしまって」
「確かに、この金額はお若い方にとって見たら大金ですからね。でも多分あまり怖い人ではないと思いますよ。普通の女性だと思いますけれど」
「はぁ・・・」
千石は首筋を意味なく引っ掻いた。すると女が口元を突然引き締めて、千石をまっすぐに見やった。思わず背筋が伸びる。
「話は最後まで聞いておくべきですね。これからは注意なさってください」
すみません、と思わず千石は謝った。謝罪の様子を確認した女は、口角を上げただけのアルカイックスマイルを浮かべた。
形容するのならば、それはまるで人形のような。
「申し遅れました。私が竜崎桜乃です」



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