千石が桜乃の家で暮らし始めてから二か月が経とうとしていた。
厳しい暑さもいつの間にか去り、寒さがやってくるまでの束の間の過ごしやすさを、千石は毎日の簡単な家事と受験勉強で過ごしていた。家事といっても、最初桜乃に言われた家事は、千石に割り当てられた部屋の掃除だけだった。それでは心苦しいと、自ら風呂掃除と週に一度のトイレ掃除について、自主的に行うことにしたくらいだ。
桜乃もやはり人間だったようで、時折素直な表情を覗かせることがある。しかし、千石が最初に感じた、人形のような女だという桜乃の印象は、相変わらず千石の胸にあった。事実、彼女は美しい。
千石は女性が好きだ。だが、それはいつも小さな愛玩動物を可愛いと愛でる感覚でしかなかった。ふわふわして柔らかくて、事実触ると自分の固い身体とは違う、どこまでも柔らかくて細くて折れそうな体がたまらなく好きだ。それはいまでも変わることはない。だが、彼女は千石がいままで接してきた彼女たちとは明らかに違っていた。彼女からは目の前にいる男に媚びるような愛らしさなど微塵も感じなかった。ただ、まっすぐにどこか別のところを見ている、そんな次元の違う、一途な美しさだった。
彼女の容姿の中で、特に千石が奇麗だと思っているのは、そのさらりとした黒い髪の毛だった。仕事に行く時など、普段はまとめてしまっている髪の毛は、寝起きそのままで朝食をとる時など、たまに自由に彼女の背中で揺れる。しっとりと纏まりのある長い髪の毛が、彼女の華奢な体に這っている様は、思わず緊張して目をそらしてしまったくらいだ。千石より十歳年上だという、妙齢の彼女は、さぞかしもてるのだろう、とそう思う。そんな彼女の恋人を差し置いて、一緒に暮らしているこの状況に、後ろめたいものを感じていた。
桜乃のほうも、彼女にとっては十も年下だが異性の千石と一緒に暮らすことをあまり良いことだとは思っていないのではないか。そう思って聞いてみることもしばしあったが、そんな質問をするときまって桜乃は曖昧に笑いを返すだけだった。ただ、桜乃は千石が来る前からもう何年も続けているような、淡々とした生活を崩すことはなかった。それが、彼女の世界に転がり込んできた厄介者、という意識を強く持っている千石の救いにもなっていたのだが。
そんな彼女につられたのか、毎日、どこかに出かけるわけでもなく、一日中静かな屋敷の中で過ごしている千石は、永遠にそれが続くような錯覚を覚えてしまうことがたびたびあった。
だが、まさか本当にそんなわけもない。受験日まではもう半年を切っているのだから。気を引き締めてかからねば、そう思っていた矢先、二週間前に受けた模擬試験の結果が郵便受けに届いた。



千石は、仕事から帰った桜乃の前に届いたばかりの模試結果を誇らしげに突きつけた。
そこに記されていた合格判定のアルファベットを見遣り、桜乃は感嘆からため息を漏らした。すばらしいですね、と一言つぶやく。この二ヶ月間、注意されこそすれ褒められることの少なかった千石は、その桜乃の言葉に笑みを深くした。
「これはラッキーじゃない、実力だからね」
もう一度結果表に書かれた「B」という判定を確認し、千石は満足げに頷いた。
「二か月前はD判定でしたのに、成長しましたね」
「桜乃さん、お祝いしてよ。俺、お好み焼きが食べたい」
「お好み焼きでいいんですか。もっと高いものをねだられるかと思いました」
「もっと高いものは合格したらおごってください」
苦笑した桜乃を見て、千石は笑った。少し遅いですが、今から行きますか、と夕食とするには少し遅いその時間を確かめながら桜乃は言った。その言葉を期待して、夕飯を食べずに待っていた千石は当然のように頷いた。



久し振りに食べたお好み焼きがうれしくて、桜乃が思わずあきれるほどの量をたいらげた千石は、満足な重みを抱えた腹をなでた。その様子を見て、桜乃はうんざりしたというように眉を潜める。
「若いからって、一人で3枚半もよく食べましたね」
「大丈夫、サラダも食べたから」
そういう問題じゃありません、とため息をついた桜乃は、しかし、気を取り直したように模試の結果を振りかえる。
「古典の成績があまりあがっていないようですね」
ああ、と指摘されて初めて気がついたというように千石は恍けていた。ややあって、困ったような苦い笑いを口元に広げる。
「現代文なら大丈夫なんだけど、古い方はちょっと」
「困りましたね、私も古典はあまり得意ではなかったので、お教えする自信がありません」
申し訳なさそうにしている桜乃の様子に、千石は驚き、慌てて首を横に振った。
「桜乃さんが謝ることじゃないよ、ただでさえここに転がり込んで、しかも男が、桜乃さんに迷惑かけてるし」
「いえ、おばあちゃんからのお願いですから」
「でもさ、桜乃さんが彼氏に疑われてたら、嫌だし」
桜乃はその千石の言葉に目を丸くすると、思わず噴き出した。
「恋人なんていませんよ」
からかうような笑みを浮かべる桜乃が、ひどく幼く見える。最近、彼女はこうやって砕けた表情をするようになって来ていて、それが千石の心に、少しだけくすぐったいものを残していた。しかし、出会った当初は彼女のことを酷く威圧的だと思っていたから、近頃の柔らかなものが混じりだした桜乃の表情を嬉しく思うのも当然かもしれなかった。
「好きな人はいるんですけどね」
まるで内緒話をするように、呟くように、そっと彼女が言った。
もう一度見た彼女は、何もなかったかの様な顔をしているが、しかし悲しいのを必死で飲み込んだ後の表情にも見える。そんな表情をさせてしまったことに後悔を覚えたが、その一方で、初めて桜乃の感情を引き出せたように感じてしまい、なぜか酷く興奮した。後ろめたさを感じずにはいられなくて、彼女に察してしまわれないように、慌てて千石は明るい声を出した。なんとか場を取り繕うとする。
「会社の人!?」
自分としては、明るいいつもの自分の声を出したはずだったのだが、しかし慌てた唇から出た声は、やたらと大きい、ただの間抜けな素っ頓狂な音でしかなかった。千石は慌てて口をふさぐ。桜乃はその千石の様子がおかしかったのか、口元に手を当てて小さく噴き出していた。
「違いますよ」
そう言った彼女がにっこりと笑った。もうこの話は終わりだというように。再び彼女は元の淡々とした表情を取り戻す。酷くあっけない幕切れだった。やはり彼女にとっては、千石は保護し、面倒を見てやるだけの人間でしかないのだろう、とそう考えたとき、なぜか悲しい気持ちを持った自分に気がついた。
「そういえば古典ですが、私の知り合いに得意な人がいるんです。たまに受験生に教えていたりするようなので、今度お呼びしますね」
思わず千石は頷く。その様子を見、桜乃は満足げにうなずいた。



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