ただいま、という声とともに玄関の扉を開けると、見慣れぬ男ものの革靴が見えた。鈍く光る革は、よく磨きこまれていて、持ち主の几帳面さを如実に表わしているようだ。律儀に整えられた靴を一瞥すると、千石はスニーカーを隣に脱ぎ捨てて足音を立てながら廊下を歩いた。
「あ、お帰りなさい」
桜乃の声に襖をのぞき込むと、奥に、桜乃ともう一人の男がいた。しばらく彼ら二人で部屋にいたのだろう、目の前に供されていた湯呑からは、すでに立ち上る湯気が消えている。旧知の間柄らしい二人の作る空気は、千石の知り得ないものだった。その場にぼんやり立っていることすら気まずい思いを感じてしまう。一度違和感を感じだすと、客に応対している桜乃の表情ですら、知らない女のように思ってしまい、それが一層の疎外感を覚える原因にもなった。こっちにいらっしゃい、という桜乃の招きに、しぶしぶ歩を進ませ、桜乃の少し後ろ側に慣れぬ正座をした。
千石が座ったのを笑みで迎えると、そのまま桜乃は向いの男へと視線をうつした。
「千石清純くんです」
桜乃の紹介に合わせ、千石はどうも、と会釈をする。相手方はにこりと笑った。つられて千石も愛想笑いを浮かべた。
「不二周助です。予備校の講師をしています。桜乃ちゃんからもう話は聞いていますよね」
はい、と桜乃は頷いた。その愛想の好さに、千石は内心不愉快を感じずにはいられなかった。千石の前で普段、桜乃がここまで笑みを見せることがなかったから、余計に感じてしまうのかもしれない。
毎週土曜日に来るという不二に、ありがとうございます、とおざなりに頭を下げて席を立った。千石が部屋を出るのを待っていたように、彼ら二人は再び語りだす。お互い、分別のついた大人の声を響かせ、静かな雰囲気を作っていた。それは決して千石の入れぬ世界だった。
ふと、何日か前の帰り道を思い出す。湿った夏の空気が、だんだんに乾いていく途中の、秋の夜のことだった。ふと聞いてしまった彼女の言葉。あれからどうしてか、千石の頭の片隅に、ずっと引っかかってしまっていた。



部屋へと戻ってしまった、千石の背中を、桜乃はぼんやりと見送っていた。今回、不二を頼んだのは、彼にとっては余計な御世話だったのだろうか、どことなく不機嫌なその足音を響かせていた。ご機嫌取りに今日は甘いものでも用意してやろうかと考える。おそらく千石は喜んでくれるだろう、そう思ったとたん、彼の喜ぶ顔が桜乃の目にありありと浮かび、思わずこちらまで表情を緩めさせてしまった。
自己表現するということが苦手な桜乃にとって、生来の明るさを感じさせるような千石は苦手なタイプの人間だった。例外としては、彼女の幼稚園のころからの親友なのだが、それは例外にすぎない。彼女も、桜乃も、お互いの性格を熟知していて、足りないところはお互いに配慮し合い、自らが勝る部分については積極的に相手を助けあってきた。しかし、そんなことができたのは、付き合いが自我などない幼児のころから、たくさん遊んで思い出を繋げてきたからできたことだと桜乃は考えている。だからこそ突然降ってわいたような今回の千石の件など、スミレのたっての願いだということで不承不承引き受けることにしたが、断りたい気持ちで一杯だった。おそらく、彼にとっても、このような内気で、陰気にすら見える人間と生活するだなんて、気の進まない話なのではなかったのだろうか。実際は彼はスミレから桜乃の様子を聞いていなかったようなのだが。
しかも、桜乃にとって同性である女性を預かるわけではない。いくら彼がまだ高校を卒業したばかりの十代の少年とはいえ、異性なのだ。彼もその点では色々と引っかかる部分があっただろう。まぁ、この場合、仮に間違いが起きたとしたら、圧倒的に年長者である桜乃の責任が問われることになるのだが。
だが、二週間もすると、最初に感じていた心配が、いつのまにか嘘のように桜乃の中から消えてしまっていた。千石は桜乃に対し、まるで親戚の姉に接するような感じでいるようだし、桜乃自身も、人懐っこい親戚の子供の世話をしているように感じていた。事実、桜乃の父親とスミレは兄妹であったし、千石はスミレの教え子である以上、スミレの子であると思えば、いつの間にか彼が甥っ子や弟のように思えてくる。父親とスミレの兄妹は二人きりで、スミレに子はなく、また母親は一人娘であったから、父方にも母方にも甥や姪はない。桜乃自身も一人娘である。だから、甥や弟の面倒を見るという経験はなかったが、自分のその想像はあながち間違っていなさそうだ、と時に楽しんでしまっていた。
「桜乃ちゃん」
茶に口をつけた不二が言った。その声に、ふと自分の湯飲みを見ると、すでに湯気はない。中身は固く冷えていて、変色もしているようだった。中身を変えようと慌てて席を立つ。それを不二が苦笑しながら留めた。
「何か考え事でもしてた?」
「いえ、今日の夕飯はどうしようかと」
不二が吹き出し、ごまかしたね、と笑いながら言った。本当にそのことを考えていて、とあらがったが、不二になだめられてしまった。彼に真意が伝わっているのか不安になるが、いつもの彼の冗談だろう、捨て置いても大丈夫そうだ。
「竜崎先生に聞いたとき、びっくりしたよ。なんで断らなかったの?」
「はじめは、断ろうと思ったんです」
へぇ、と彼は笑みを深くした。興味があるときの彼の癖だった。
「あの子、この間両親が亡くなったらしくて。親戚は彼らとは疎遠だったようで、彼自身が啖呵きったみたいなんです。保険金あるし、自活できるって」
見てもいないのに、そのときの映像が見知ったことのように浮かび上がったような気がする。疎遠な親戚同士が集まり、残された18歳の一人息子を誰が引き取るかいがみ合いを続ける、酷く辛いシーンだとは思うが、今の彼の様子を見るにつけ、あまり暗い場面は想像し難かった。どこかコミカルな絵であるような気すらしてきて、思わず桜乃は笑みがこぼす。あわてて口元を押さえた。
「・・・ご両親が亡くなったのは今年の一月だったそうです。大学受験は取りやめ、で、就職って考えたようなんですけど、急な方向転換は難しかったようで、スミレ叔母さんに相談して、今年もう一度受験することにしたそうです。それでアパートの契約が切れた今年の夏にうちに来てもらいました」
波瀾万丈でしょう、と桜乃は笑った。だが、千石はそれを感じさせない。あの底抜けに明るい笑顔で、全てを受け止めてしまうようだ。ここに来るときも、事実を話しては多分千石は納得しないだろうから、と彼が考える時間もなく飛びついてしまう餌をぶら下げて彼の了承を得ている。桜乃の身の回りの世話を住み込みですることによるアルバイトという餌を捲いて、それにつられた彼だったが、すでに二ヶ月目にしてアルバイト料を拒否しだしている彼のことだ、スミレの話のからくりが分かってしまったのだろう。だが、彼はまだ少年であったからそうせざるを得ない。分かってはいるのだろうが、何とか自分の力で解決しようとあがいている、彼の姿勢が、桜乃はまぶしかった。いつまでも過去に引きずられた自分とは違う。彼女にとってみれば異質な人間だった。
「あの子はいい子なんです。なんとか力になってあげたいんです」
学費が安いという理由からだろう、彼は国立の大学を希望している。だが、彼が志望する大学は彼の学力では難しい。だが、彼は努力を続け、あと一歩のところまで来ている。あと一歩であるならば、桜乃も力になってやれるかもしれない。彼を押し上げてやることができるかもしれない。自分の願いは叶わなくても、彼の願いならば、叶えるための一助になれるかもしれない。そう桜乃は思っていた。
不二は黙ったまま、優しげな表情を浮かべている。その表情は普段から温かく彼女を見つめているものと、桜乃の目には何も変わっていないように見えた。



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