不二は毎週土曜日の午後三時にやって来る。
勤務先でもある予備校での現役講師(しかもカリスマ付き)である不二の教え方は、古典と言えば最初の二行を読んだだけで頭痛を起こす千石にも非常にわかりやすいものだった。不二はまた、千石の志望校の傾向も熟知しているようで、その対策にもぬかりはない。優しげな外見とは違った、なかなかのスパルタに根を上げそうになりながらも、言い渡された宿題をなんとかやり遂げる。やり遂げた途端、次の問題が出てくるのだが。
「終わりましたか、じゃあ、次はこれですね」
今日も不二は笑いながら、持参した鞄の中からホチキス止めした用紙を千石の前に差し出した。答えを書き終えた用紙を不二に渡すその手で不二から新たな課題を受け取る。もう二時間この調子だ。いい加減休憩を入れたいと思ったその時、襖が静かな音を立てて開いた。
「お茶菓子をお持ちしました。少し休憩を入れてはいかがですか?」
湯気を立てた二つの湯飲みと、ケーキを用意した二つの小皿を乗せた盆を、桜乃は片手で持ち、開いた手で器用に襖を閉めた。互い違いに座る二人の卓の前に、それぞれ湯呑と小皿を配置する。広がる白い用紙に気を使ったため、少し手を伸ばさないと届かない。千石は急いでプリントを目の前からどかし、湯呑と小皿を目の前に引き寄せた。茶で口を湿らせた後、添えられていたフォークでケーキを一口すくう。久し振りに食べた砂糖とクリームの甘さを十分に堪能する。
「桜乃さんは食べないの?」
用意は千石と不二の分しかなされていないようだ。疑問に思って聞くと、これから出かける用事が出来てしまったので、と桜乃は答えにくそうに告げた。
「・・・越前が帰ってくるんだったね、今日」
そう言って不二はケーキを口に運ぶ。何気ない風を装っているようだが、一瞬のためらいがあったのに千石は気がついた。
ええ、と頷き、桜乃は笑った。千石の知らない人間が、また出てきてしまった。
数か月前までお互いの存在すら知らなかったのだから、それはあたりまえのことだ。だが、千石は何となく違和感を覚えてしまう。もしかしたらもっと適当な表現があるのかもしれないが、あいにくと千石には難しいようで、そのままにしておいた。
「ですから、今日、これから少し出かけてきます」
「夕飯はどうする?」
「そうですね」少し考え、桜乃は言った。「家で食べますので、私の分も用意していただけますか?」



桜乃が部屋を出た後の沈黙に耐えきれず、千石は不二に話しかけた。
「越前って、だれ?」
不二は目線を上げず、黙々とそれが義務であるかのようにケーキを口に運んだ。答える気がないのか、と千石は仰向けになる。伸びをすると、固まった背骨が動き、気持ちがいい。そのまま瞼を閉じようかとしたとき、不二が呟いた。
「越前リョーマ。テニスの」
思いもよらない有名人の名前を出され、千石は思わず飛び起きた。
テニスの王子様。越前リョーマが、若干十九歳でゴールド・スラムを達成したとき、その強さと見た目をマスコミがセンセーショナルに報じた言葉だった。ゴールド・スラムとは、テニスの四大大会と言われる、全豪オープン、全仏オープン、ウィンブルドン、全米オープンのすべてを夏季オリンピック開催年に優勝し、同時にオリンピックの金メダルを獲得することをいう。1988年に西ドイツ出身の女子選手が初めて達成した後、誰もその偉業を達成した選手はいなかったが、とうとう九年前、彼が史上二人目となった。しかも初めて出場した年に、だ。越前リョーマは、一回だけジュニアの大会で優勝したことがあるようだが、それからは学校の部活動でプレーをしていたようで、その活動を知る者はごく少ない。日本ではメジャーとは言い難いスポーツである、テニスの、しかも部活動でのプレーなのだから、それも仕方のないことだろう。唐突に現れて、しかもその年のタイトルをあっさりと奪い取っていった越前リョーマの出現を、世界は驚愕とともに書き綴った。『テニスの王子様、現る』、と。
二十代後半に突入した今、さすがに「王子様」と形容されることはないが、十代後半から二十代前半までが強さのピークといわれる中テニスプレーヤーの中、現在も世界ランク上位をキープする彼の底知れぬ強さは今も熱を持って報道されている。スター選手が現れるとその競技人口が増える。テニスも当然同じパターンとなり、越前リョーマに憧れテニスを始める人間が老若男女問わず随分増えた。幼い千石も彼の影響でテニスを始めた一人だった。
「千石くんも知ってるとは、越前、有名人だね」不二がにこりともせずに言い放つ。彼は不機嫌を隠そうとしなかった。そんな様子の不二は珍しいが、同時に彼の敵意にも似た感情を感じ、千石は眉を潜めた。
「越前は中学のときの後輩だよ。テニス部だったから。竜崎先生は部の顧問でね。桜乃ちゃんは同級生の越前のことずっと好きだった」
今もね、と不二は呟いた。静寂が部屋に満ちる。千石は天井を見上げた。天井には、四角い照明カバーがぶらさがっている。中に設置してある丸い蛍光灯は、三日前に桜乃と二人で取り換えたものだ。(男手がいると楽ですね)、そう言って桜乃は笑っていた。(これからずっと、切れたら交換してあげるよ)、たしかそのように自分は返したはずだ。ずっと、とは言ったが、大学に合格したら、要するに来年の三月にはこの家を後にしなければならないだろう。あと数カ月しかないことを今更確認する。この広い家に、桜乃はまた一人で暮らすのだろうか。
「不二さんは、たまにこうしてここにやってくるんですか」
「一緒に暮らしてる君ほどじゃないけどね」
「・・・不二さん、俺のこと嫌いでしょ」
不二が困ったように笑う。「嫌いっていうより、不愉快かな」
訂正しても結局同じ意味だ。千石は力なく笑った。そんな千石の様子を知ってか知らずか、不二は続けた。
「でも、君も僕のこと、あんまりよく思ってないの知ってるから」
図星だった。だが、千石はうろたえなかった。見抜かれていたような気がしていたからだ。「わかっちゃいましたか」
勘は鋭いほうだから、と不二は頬杖をついて部屋の外を見た。
「まあ、八当たりなんだけどね。桜乃ちゃんのそばにいる奴は全員。越前もだけどね」
彼の気持ちはなんとなく想像がついていた。思ったとおりの答えに、千石はなんの感慨もなくただ天井を見上げている。
「君は?」
問われた内容に返事に詰まる。何か言わなくてはならないが、どうにも言葉にならない。結局、分からない、と返すので精一杯だった。優しいと思う。奇麗だと思う。だが、普通の女の子を見るように彼女を見ることができなかった。見てはいけないのだと、彼女との時間がすべて壊れてしまうのだと。千石自身も認識しないうちに、彼の心に深く根付いているものだった。
「じゃあ、桜乃ちゃんのこと、もらってもいい?」
不二の言葉に、千石はこめかみに力が集まるのを感じた。思わず声のトーンが低くなる。
「桜乃さんは物じゃないですよ」
「君に言われなくても分かってるよ、そんなの」強い調子でそう遮られた。「越前、日本になんで帰ってきたんだろう。帰ってこなきゃいいと思わない?」
さあ、と曖昧に漏らす。千石くん、と呼びかけられたのは、そのすぐあとのことだった。
「桜乃ちゃんのこと、分からないのなら、分らないままのほうがいいと思うよ」
「・・・何で、ですか」
辛いだけだから、と不二は言う。「桜乃ちゃんは、もう十年以上越前を想ってるんだ。どうしてだと思う? あの子の中で、越前は神様みたいなもんなんだ。もう現実を見てないんだよ。自分の中で作り上げた『越前』を抱えて、それを必死に守ってる。恋していると思ってる。信仰してる、って言い換えてもいいと思うよ」
気持ち悪いよね、と最後に付け足すが、それは桜乃に対する侮辱ではなく自らを嘲るものだった。
「それを、桜乃さんに指摘したことはあるんですか」
いえるわけないじゃないか、と不二は呟いた。
ああ、自分も彼と同じだ、と共通点に気がついた。彼女を失うのを恐れている。



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