テレビ画面が、CMを終え、別の番組を映し出した。その番組はいつも八時から始まるクイズ番組で、千石が亡くなった両親と暮らしていたころ、たまに見る番組だった。ただ、桜乃の家に来てから一度も見たことがなく、聞き覚えのあるオープニングテーマのフレーズに、ふと懐かしさを覚えた。千石はリモコンに手を伸ばし、電源ボタンを押した。するとすぐにテレビ画面の一面が真っ黒になり、部屋には静寂が満ちる。
仰向けになり、台所の方へ首を伸ばす。今日の夕食にはハンバーグを用意し、焼いておいた。先ほどまでかすかに香ばしい匂いが漂って来ていたが、今はすでに冷え切ったそれは、皿の上にラップをかぶせられた状態で、再び冷蔵庫の中で眠っていた。
「・・・遅い」
不二の話を聞いた時に生まれた、濁ったものを濾過することができないでいる。不意にそれは大きくなり、こうして千石をいら立たせていた。やはり、今日は桜乃は帰らないのだろうか、そんなことを考え、そしてそんな下世話なことを考えてしまう自分の思考回路をばかばかしいと切り捨て、起き上がる。連絡を取ろうと思い立ち、玄関に向かう。電話機がそこにしかないためだったが、板張りの廊下の冷たさに少しだけ震えた。受話器を持ち、桜乃の携帯電話番号をダイヤルする。ワンコール鳴るか鳴らないうちに、桜乃が玄関の戸をあけて帰ってきた。
「遅くなりました」
桜乃は受話器を持ったままの千石に声をかける。慌てて、千石は受話器を置いた。
「電話、かかっちゃったかも・・」
鞄から携帯電話を取り出した。画面をのぞき込む。「ああ、かまいませんよ」
靴を脱ぐ桜乃を見守る。出かけたときと今の桜乃とでどこか違和感を感じて、千石は首をひねる。どこも何も変わるわけがないのに、と思い、そのとおり変わっていない所を見つける度に、濁ったものが一つずつ消えていくのを感じてた。
なぜ、自分がそのように思ってしまうのか、千石には明確な説明を見つけられない。言葉の網ですくえない。桜乃を見つめると、気がついた彼女が笑い返す。顔が熱くなるのを感じて、誤魔化すように、口を開いた。
「桜乃さん、お腹、空いた・・?」
恐る恐る尋ねてみると、桜乃は振り返り、笑う。
「ええ、遅くなってすみません。もう夕飯はお食べになりましたか」
まだだよ、と言って、千石は台所に急ぐ。冷蔵庫から取り出したハンバーグとご飯をテーブルの上に出し、順番に急いで電子レンジの中に入れた。
レンジが作動している間、何かすることも思いつかず、千石はただただ加熱されていく中身を見ている。桜乃を振り返りたかったが、何となく気まずいような気がして、できずにいる。急須に新しいお茶の葉を用意している桜乃は、そんな千石の様子には気が付いていないようだった。ややあって、千石が口を開いた。振り返らずに、何気ない風を装って。
「・・・誰と会ってきたの」
「中学時代の、お友達です」
「もしかして、越前リョーマ、だったりする・・?」
桜乃の動きが一瞬だけ止まる。すぐに何もなかったかの様に動き出してしまったが。
「ああ、不二先輩から聞いたんですね」桜乃は言った。口元を無理やり上げて、笑みを作る。「そうですよ。リョーマくん、いえ、越前・・さん、今度、日本で恋人と結婚なさるそうです」
スミレや不二や、越前リョーマの中学時代の部のメンバー集めてお祝いをすると、桜乃は続けたが、千石にとってはどうでもよかった。今にも泣きだしそうにしている桜乃が、一体いつその涙をこらえきれなくなるのか、それだけにただただ注目していた。



不二が凝った肩に手を当てながら、講師室に戻った。在室の講師やスタッフにお疲れ様です、と声をかけると、顔を上げた馴染みの講師が大袈裟に笑った。
「先生、じじむさいですよ、肩、運動不足じゃないですか」
恰幅の良い、四十半ばかと思われるその男性講師が不二を笑う。不二も苦笑した。
「これでも学生時代は、テニスやっていたんですけどね。最近はなかなか」
「ほう、テニスですか。不二先生なら、さぞもてたでしょう」
「昔の話です。先生こそ、運動不足ですよ」
出っ張った腹を見ながら指摘すると、彼は照れくさそうに笑って席を立った。じゃあ、また明日、と告げる彼に不二も手を上げて答える。彼の向かいの机に座ると、置きっぱなしにしてあった不二の携帯電話に着信ランプが点灯しているのが見えた。
画面を確認すると、中学時代から付き合いのある、彼の友人の名前があった。携帯を持ち、講師室の外に出る。廊下の奥で呼び出し音のなっている携帯を耳にあてた。
『あ、不二! 久し振り!』
弾む友人の声が耳に届く。「英二、久し振り。どうしたの」
『不二! 大ニュース! 大ニュース!!』
友人―菊丸英二の興奮した声が受話器を通して漏れ出す。彼とは中学校のテニス部で知り合ったが、その頃からの大袈裟なまでの感情表現は相変わらずのようだった。彼女はずいぶんと内にこもってしまったが、この友人はあの頃から変わらない。それがやけにほほえましくて、不二は笑いをこらえられなかった。菊丸はそれを目ざとく聞きつけて、声を顰める。ごめん、と不二が謝ると、すぐに元に戻ってしまったのだが。
『不二! 大ニュース! 大ニュース!!』
「はいはい、何、手塚が離婚でもしたの」
していない、という小さな抗議の声が聞こえる。この憮然とした声は、手塚本人の声のように思える。彼は、不二が中学三年のときに自らも属するテニス部の部長を務めていた。相変わらず腕を組んだまま、人を鋭く睨みつけているのだろう。最低限しかしゃべらない、意思疎通が極めて難しいと思われるあの朴念仁が、大学卒業と同時に結婚を決意し、実行したという甲斐性を見せたニュースが流れた時に、おそらく東京は壊滅するのではないかと本気で考えてしまったことは、まだ記憶に新しい。多分、彼のそんな情熱的な甲斐性を見れるのと、死んだ祖母に会える確率とは同じくらいだと、今でも不二は考えている。
だが、なぜ手塚の声が聞こえるのか、疑問に思い、菊丸に尋ねる。「あれ、もしかして、手塚も一緒?」
『うん、そうだよ! 手塚だけじゃなくて大石も乾もタカさんも一緒なんだ。だからこの電話、みんなにも聞こえるようにスピーカーにしちゃってる。ごめん』
菊丸が上げた名前に思わず顔がほころぶ。中学テニス部の面々がそろい、同窓会のようだ。今でも時々はあっているが、全員と一緒に会うことはめったにない。朝から晩まであたりまえのように一緒にいた中学時代を思い出し、懐かしさが刺激された。
「別に構わないけど・・・。どうしたの、みんな揃って」
『不二か? 久し振り』
菊丸のはしゃいだトーンとは違う、落ち着いた声が不二の耳に届いた。 「大石。久し振り」
部長の手塚の下で副部長を務めていた大石は、菊丸のいうニュースを告げる前に、不二の様子を気遣った。サポート役がしみついているのだろう、不二は苦笑しながら気遣いを受け取った。
『越前がな、結婚するんだって』
あっさりと告げられたそれに、思わず携帯が手からこぼれおちそうになる。慌てて電話口の様子を伺うと、ニュースの中身を告げてしまった大石に、菊丸がつかみかかっていた。どうやら自分が言いたかったらしい。手塚が最低限の言葉で仲介しようとしているようだが、どうもあまり役には立っていないようだ。
「英二、英二!」
呼びかけた声に菊丸からの反応がある。『ほい?』
「・・・誰から聞いたの」
『竜崎先生だよ。あれ、あんまり不二、驚いてない??』
「いやいや、驚いてるよ。とうとう越前にも先越されたかって。感慨深いものがあるね」
『ま、おチビ強かったし。生意気だったけど』
「うん、越前強かったし。生意気だったけど」
日本に帰ってきているとは知っていたが、まさかこのことだったとは思わなかった。彼にはゴシップの一つもなかったから、まさかとは思っていたが、二十代後半となった彼の年齢を考えると納得できる。菊丸の話によると、越前の相手の女性は彼のトレーナー役をしていた女性だということだ。プロポーズはどちらからなのだろうか、と好奇心がうずくのを感じる。
『それでね、次の土曜日か日曜日にお祝いするから、集まろうって。不二、大丈夫?』
「ああ、日曜日だったら平気だよ。場所は?」
『場所なんだけどね、不二の前に桜乃ちゃんに連絡したら、桜乃ちゃんの家を貸してくれるって』
数時間前に越前に会いに行くといった桜乃が脳裏に蘇る。結婚は、本人から直接聞いたことだろう。桜乃がどんな思いでいるのか、不二には手にとってわかるようだ。
「・・・迷惑じゃないかな。仮にも女性の家だし」
『大丈夫だよ、言い出したの竜崎先生だし。桜乃ちゃんも、普段寂しいから嬉しいって喜んでくれたし』
『当日は迷惑をかけないように、なるべく早く終わらせて帰るぞ』
『手塚! わかってるよー。・・・不二、だから、当日は午後四時に駅前のコンビニ集合! 大丈夫?』
「・・・分かった、来週日曜日の午後四時だね。ビールとか持ってけばいいかな」
『うん、たくさん持ってきていいから!』
あ、タカさんは寿司持ってきてね、という菊丸に、タカさんと呼ばれた河村隆は気押されるように頷いていた。その声を遠くに聞きながら不二は電話を切る。しばらく携帯を弄んでいた。電話帳の「り」の欄にその名前はあった。「竜崎 桜乃」
ボタンを押し、耳に当てる。しばらくコール音を聞いた後、やはり耳から電話をおろし、つながっていた回線を切った。
今、彼女に何を言えばいいのかがわからなかったからだ。
越前リョーマの結婚は、彼女にとっておそらく夢の終わりを意味する。寝ている時に見る夢ではなく、現実の世界の中で見る夢は、可能性は低くても少しでも希望があるときに見続けられるものだからだ。そして、桜乃にとって、「夢を見るための条件」は越前が未婚であるということだった。桜乃は自分からは決して動こうとしない癖に、あこがれだけは一人前の困った大人だ。だが、大人である故に、不倫などという馬鹿げた関係は望まないだろう。彼女は、「好きだ」という感情を免罪符にして想いのまま過激な行動をしてしまうような、愚かな人間ではないからだ。だが、と不二は思う。
その賢さが十年以上彼女を箱庭の中に閉じ込めた。越前を好きだという感情よりも、出しゃばってはいけないという理性を持って行動を殺してきた彼女の結末は、皮肉としか言いようがなかった。
彼女の名前を呟いた。初めて聞いた時から、きれいな名前だと思っている。彼女の滑らかな肌も、濡れた漆黒の黒髪も、丸い目も小さな耳も、彼女を取り巻く空気すら。それは年を経るごとに、ますます強く、不二の心を縛っている。



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