携帯の不在着信の欄に、不二の名前があるのを見つける。桜乃はそれを見ると、一瞬だけ躊躇ったのち、やはりボタンを押した。壁に掛けてある時計を見ると、まだ7時前だった。おそらく不二はまだ起床していないだろう。だが、それでよかった。不二がこの電話を気づかなければいいとすら、どこかで思っていた。
だが、願いに反して相手は電話を取った。少しだけ掠れた声が耳に届く。桜乃にはそれが、何となく遠い世界の出来事のように聞こえてしまっていた。
「・・・すみません、起こしてしまいましたか」
もう起きていたから、とやんわりと否定する声が聞こえる。彼はどこまでも自分に甘くて優しかった。桜乃が何を言っても不二はそれを受け止めてくれる。まるでそうすることが義務であるかの様に。だが、そうすることで、桜乃は不二を傷つけていることに気が付いていた。気が付いていて、しかし、目を瞑っていた。
少しだけ躊躇ったあと、不二は大丈夫、と呟いた。何のことでしょうか、と桜乃は惚ける。不二は何も言わなかった。ただ、黙っていた。
「日曜日、先輩もいらしてくださいね」
それだけ言って、桜乃は電話を切った。無性に腹が立って、携帯を座布団めがけて投げつける。
私は、あなたにまた縋らなくてはいけないのか、それであなたは満足なのか!
桜乃はその場に崩れ落ちた。腕をつかないと、上半身を支えられなかった。背中が震える。喉の奥から熱いものがこみ上げてきた。泣いてはいけない、取り乱してはいけない。・・・不二に、見つかってはいけない。彼を、傷つけてはいけない。もう充分だ。
携帯電話が、座布団の上で着信を告げた。マナーモードにしたままのそれは、小刻みに震える。赤くライトが点滅する。桜乃はその場から立ち上がり、廊下に飛び出した。うるんでしまった瞳を、洗い流さなくてはいけない。捨て置かれた携帯電話は、やがて事切れたように鳴くのを止めた。朝日に照らされたそれは、部屋の中できらきらと輝いていた。



出る気配のないコール音にため息をついて、不二は携帯電話を折りたたむ。テーブルの上に置いて、不二はカーテンを開けた。飛び込んでくる日差しに思わず目を細めて、それからテーブルの上に目をうつした。黒い携帯電話の隣には、先日行った小テストの解答用紙が置かれていた。二十と少しの枚数あるそれを、ざっと見なおす。すべて赤ペンで書き込みがしてあるのを確認し、不二はそれをクリアファイルに入れ込んだ。そのまま鞄の中に納める。もういちど携帯を見つめたが、携帯がまた鳴り始めることはなかった。
彼女が好きだ。だから、ただただ優しくしてあげたい、と不二は思う。すべてのことから傷つかないように守って、そうして彼女には、優しく笑っていて欲しい。彼女が大事なのだ。出会ったときから、それは不二の心の中にある。桜乃が、リョーマを一心に見つめていたころから。
彼らが成長し、不二が、桜乃に、見守るだけでない愛し方を見つけてしまったころから、真っ直ぐだった感情がねじれてしまったけれども、でも、彼女が大事だという想いは何も変わっていないと信じている。
(・・・それは、桜乃ちゃん、君も、同じだろう?)
彼女は、ただ、リョーマを想い、でもそれを伝えられなくて、苦しくて、泣いて、不二が差し伸べた手を掴む。幼いままの憧れを、純粋な感情を大事にし続ける彼女を抱きしめてやるのは不二にとってたやすいことだった。腕の中にいる間だけは、彼女は自分のことだけを考えていた。不毛だとは決して思わなかった。瞬間だけでも彼女を手に入れることができたのだから。最後に彼女に優しくしてやれるのは、自分だけだったのだから。優しさを手に入れた桜乃は、また何事もなかったかのように、あの生垣に囲まれた家屋の中に帰ってゆく。そうして、リョーマを想いながら、日々を過ごしてゆく。
桜乃も分かっているのだろう。どうしようもなく混乱すると、桜乃はまるで呆けたようにこの部屋へとやってくる。壊れた機械のように、狂ったように涙を流し続けて、伸ばされた不二の手を拒むことなく、その身を預けるのだ。桜乃はそうやってバランスを取っている。誰に非難される言われもない。彼らの間だけの、これはいわば取引なのだから。そしてそれがずっと続くと思っていた。それこそ、どちらかが死ぬまで、とそう信じていた。



洗面所に、一心不乱に顔を洗い続ける桜乃がいる。眠気に目をこすりながら扉を開けた千石は、鬼気迫るといった桜乃を見て、思わず出かかっていた欠伸を押し殺した。殺気を感じるくらいの鋭い目で振り返った桜乃に、思わずすみません、と謝ると、面倒くさそうに桜乃は会釈を返した。そうしてすぐに首を元に戻すと、ヘアバンドで上げた前髪の生え際など気にしない、といった風に、白い洗面台に溜めた水の中に、桜乃は顔を突っ込んだ。千石はそれを見守っていたが、五秒、十秒と、隣りにある防水性のデジタル時計の秒が時を重ねるにつれ、だんだんと焦り出す。無理やり起こそうかと肩に手を遣ろうとするが、先ほど見せた桜乃の鋭い視線を思い出し、それも躊躇う。いわば桜乃は失恋をしたのだから、と千石は思い、そのまま彼女が顔を上げるまで待とうとするが、でもじっと待てる程、千石は胆が据わっているほうではない。おもむろに彼女に声をかけるが、水面から顔を上げようとしない桜乃からは返事はなかった。
「に、二十秒経ったら、無理矢理引きはがすから!」
叫ぶ彼を知ってか知らずか、桜乃はそれでも動こうとしない。千石は横目で時計を見た。あと三秒、二秒、一秒。
「・・・シツレイシマス」
そう言って千石は桜乃の肩に腕を回す。後ろから抱き締めるような格好になったが、これは無理矢理引き離すときに桜乃の体をどこかにぶつけないようにするためであって、決してやましいことを考えたわけではない、と自分に対して言い訳をするが、それでも抱きしめた腕で感じた彼女の細さに心臓が大きく鼓動してしまうのを、千石は止められなかった。重心を前に移して抵抗しようとする桜乃に、千石は勢いよく後ろへと身体を動かす。体重はどう考えても千石の方が重い。彼女はあっさりと後ろへと引く千石の胸に頭を預けてしまった。急な重心の移動に耐えきれず、桜乃はバランスを崩す。千石も数歩後ろに下がって彼女を支えようとするが、千石自身もバランスを崩してしまい、廊下へと尻もちをついた。背中が壁に当たった音がする。思わず痛て、と声を出すのと同時に桜乃が千石を振り返る。彼女の顔についていた水滴が飛んで、千石の顔についた。
「こけたよ、かっこ悪い」と千石が苦笑すると桜乃はまた、ぷい、と前を向く。彼女の肩に廻した腕に、水滴がぽたぽたと垂れている。
「・・・離してください、もうしません」
千石はその声とともに、腕の戒めを解いた。彼女が立ちあがる。そのぬくもりが離れていくのを感じ、ふと寂しいと思ってしまった。彼女はタオルを取り出し、顔を拭きながら尻もちをつく千石の元に戻る。先ほどまで自分の顔を拭いていたタオルを首にかけ、もう一つ手に持っていた新たなタオルで濡れた千石の腕を擦りだした。
「・・・大人げない。向きになってしまいました。かっこ悪いのは自分です。迷惑かけてすみません」
千石の腕にかかった水滴は大したことはなかったので、すでに乾いてしまっていたが、桜乃は黙々と千石の腕を拭くのを止めなかった。まるで、先ほど見せた失態(少なくとも彼女はそう感じている)、をすべて消し去ろうとしているかのようだった。千石は黙って彼女の為すがままにさせている。桜乃の旋毛を見つめていると、なんとなく触れたくなって、その頭に手を遣った。思ったとおり、そのつややかな黒髪はすべすべとしていた。桜乃はタオルを動かす手を止めた。
「大人をからかうのはやめなさい」
「・・・からかってなんか、ないよ」
「じゃあ、遊ぶのはやめなさい」
「遊んでなんかない」
じゃあ、と言いかけた桜乃を止めたのは、千石の腕だった。千石の腕が桜乃の背中に回り、うつむいたままの彼女は、彼の腕に導かれるままに、額を肩にぶつけた。
千石はあやすように手のひらで背中を数度、軽く叩いてやる。桜乃が呻く。嗚咽をこらえるような声だったが、千石はそれを確かめることはせずに、斜め向こうの壁を見つめていた。
「俺さぁ、女の子好きなんだよね。・・・かわいいじゃん、ふわふわしてて。あまーい声出して、上目づかいで迫られると、どーしても好きになっちゃう」
突然語り出した千石に、しかし桜乃は黙ってそれを聞いていた。あやすように背中を撫でる千石の手のひらが、気持ちよかったからだ。立たなくては、独りで、と思うが、結局桜乃は自分に甘い。不二に頼らず立たなければ、と決めたとたんにこれだ。どうしたって誰かに縋るのか、と桜乃は自身を嘲った。
「好きになって、告白して、付き合うじゃん。でも、俺ってすぐにほかの子に目移りしちゃうから。それを付き合ってた子に見られちゃって、すぐに振られちゃう。南、あ、南っていうのは友達ね。そいつには、いっつも呆れられるんだけど。どーしようもない奴だって思われてるんだけど、でも、俺、ちゃんとその付き合ってる子のこと、好きだったから、振られたときはそれなりにショックなんだよね。・・・桜乃さん、ちゃんと聞いてる?」
千石はもう片方の腕を桜乃の背中に回す。よいしょ、と声を出して、桜乃の身体を自分の脚の間に動かした。桜乃の顎を自分の肩の上に載せる。桜乃は逆らおうとしなかった。ただ、身体を固くさせていた。千石は、自分の顔を彼女の首元にうずめる。やめて、と小さな声がしたが、聞こえないふりをした。
「失恋したらさ、いっつも南たちに泣きつくんだ。喚いて辛いーって、しゃべり倒して、そいですっきりする。たぶん向こうは迷惑してるはずだけど。でもさ、ずっと自分の中で押し殺してると、だんだん辛いのが大きくなってさ、よくないじゃん。適度に発散しないと。世界で自分一人、何でこんなにかわいそうなワタシ、ってなっちゃうし。俺さぁ、親が死んじゃったときにも思ったけど、自分で何とかしてくしかないんだよね。俺、自分の中でいろんな気持ちの整理付けるのって難しいからさ、そういうときは友達利用する。まぁ愚痴のはけ口にされてる向こうは向こうで迷惑な話なんだけどね。でも、ちゃんと俺、友達の話も聞くよ? 頼りっぱなしは駄目だし。頼って頼られて、そしていろんな人と出会って、しゃべって、遊んで、恋とかたまにして。・・・桜乃さん、そういうの知らなさそう。真面目そうだから。純粋なのもいいけど、そればっかりじゃ疲れちゃうよ。多分、いろんな桜乃さんがいるんだろうけど、俺、それ、見たことないよ。居候させてもらって、まだ数か月だけどさ。桜乃さんが我儘言うところとか、見たことないよ。強欲な桜乃さんとか、がめつい桜乃さんとか、寝坊するところとか、風邪引いたりとか、はしゃいでるところとか、笑ってるのとか、泣いてるところとか、喜んでるところとか、好きなものとか嫌いなものとか、今、何考えてるの、とか」
千石は抱きしめる腕に力を込めた。再び、彼女がやめて、と呻く。彼女の懇願に耳を貸すこともなく、腕の力を緩めることもしなかった。
ここのところ、色んな感情が渦巻いていたが、突き詰めると自分は彼女が好きなのだ、と気がついた。いつもの恋を感じる時のようなふわふわとした柔らかい気持ちとはまるで違う、もやもやとした掴み所のない不安定な感情だったが、それでもその感情に名前がついてしまうと、なぜ今まで気がつかなかったのか、と思ってしまうほど、しっくりと彼の心に落ちて来た。
「・・・やめて」
桜乃は、今度ははっきりと声を出す。
「やめて、やめて、やめて、やめて」
「俺、桜乃さんのこと」
「やめてよ!」
千石の拘束を、無理矢理解く。桜乃は千石の身体を引きはがすと、頬を叩いた。千石は桜乃の強烈な拒絶に、驚きの表情をそのまま露にする。茫然としている千石に、桜乃は我に返ったように、彼の頬を打った手を、もう片方の手で胸に抱きこんだ。
「ご、ごめん、なさい」
桜乃は立ちあがる。千石は離れてゆく桜乃の腕を掴もうと手を伸ばすが、空をかすめただけだった。千石が立ち上がろうとすると、怯えたように力なく後ずさる。
「・・・朝食の用意を、します」
そう言って桜乃は逃げるように背を向け、その場を後にした。
彼女は、多分、千石のことを傷つけたと思っているだろう。客観的にみればそれは事実かもしれないが、それは間違っているように千石は思う。
「桜乃さんの方が、よっぽど傷ついたような顔をしてる」
呟きは、誰にも届かずに空気に溶けて、そして消えた。



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