「千石くん、ビール持ってきてー!」
真赤ににこにことした声に、千石はため息をつきながら重々しく腰を上げた。隣に座っていた桜乃は、すかさず自分が代わろうとして千石をとどめようと手を伸ばす。だが、伸ばした手と反対の手をいつの間にか近くに来ていた菊丸が引っ張る。ちなみに、ビールのお代わりを注文したのは菊丸だ。
「桜乃ちゃんは、座ってていいから〜」
相変わらずの、菊丸の猫のような仕草はあのころから変わっていない。桜乃はため息をつくと、そばにあったビール瓶を手に取った。半分ほど中身の残っているそれを、差し出す。菊丸は相変わらず酔いの廻った顔をしまりなく緩めて、手に持っていたコップを傾けた。桜乃はそれにビールをついでやる。
「・・・先輩、飲み過ぎですよ」
「わ、桜乃ちゃん、それ、奥さんみたい! ね、それ、『先輩』ていうの『アナタ』って言い換えてみて!」
思わず顔をしかめた桜乃に、菊丸はここぞと抱きついた。厭味でもなく、特に何の含みもない、彼なりの好意の表現だったとしても、昔から繰り返すそれは桜乃をうろたえさせるのに十分だ。分かってはいても、赤面するのを止められない。
「菊丸先輩、やめてくださいよ。・・・竜崎が困ってる」
「そうだぞ、英二。あんまりふざけてると竜崎さんに嫌われるぞ」
桜乃の隣に膝をつき、顔を覗き込んだのは越前リョーマだった。リョーマの声に同意し、菊丸を後ろから抱え込み、引きはがしたのは、菊丸が中学時代、ダブルスを組んで通称『黄金ペア』と呼ばれた片割れの大石秀一郎だ。その大石に両肩をがっちりホールドされた菊丸は、子供のように手足を暴れさせる。子供というには、少々角ばったその手足を。
「竜崎、大丈夫?」
言って、リョーマは傍にあったビール瓶を手に取った。桜乃は慌ててコップを手に取る。半分ほど注がれた所で、ありがとうと声をかけると、リョーマは、ん、だかああ、だとか言って瓶をテーブルの上に戻した。桜乃はそれを一口だけ口に含む。
「少しびっくりしたけど、大丈夫だよ」
笑う桜乃にリョーマは困ったような笑みを浮かべた。アンタは変わらないと、そう言われた気がして、思わず桜乃の胸に、甘い痛みが響く。ふと、今泣いてしまえたら楽なのだろう、と思ってみたが、この場で取り乱すわけにもいかずに途方に暮れてしまった。
「・・・越前、結婚相手はどんな人なの?」
向いから声がした。桜乃とリョーマは顔を向ける。不二だった。相変わらず、何を考えているかよくわからない笑顔を向けられる。隣に座っていた手塚国光は、そのペースを崩さず黙々と飲んでいた。随分と酒が進んでいるようだったが、菊丸のようには表情も顔色も変っていないところを見ると、もともと強いのだろう。彼も、不二の問いかけに、目線を動かして反応を示した。
先輩には関係ないでしょう、とリョーマがむっとしながら答えているのを見ると、どうやらあまり仲が良くないらしい。そんな二人を知ってか知らずか、部のムードメーカーだった桃城武がリョーマの背中にのしかかる。桃城も十分酔っ払っているようだ。大石に引っ張られてきた菊丸がごろんと仰向けになる。それをおろおろと見守っているのは河村隆だ。寿司屋を継いだ彼が手ずから握って差し入れてきた寿司は、非常に味がよかった。慌てる河村に声をかけられた海堂薫は、戸惑いながらも、菊丸の様子を尋ねる。ややすると、笑い声が起こる。みなの視線が菊丸たちの元へ向かうのを確認して、桜乃は腰を上げた。先ほどから憮然とした表情で、成り行きを見守っていた千石を促し、台所へと向かった。



「・・・桜乃さん、楽しそうだね」
冷えたビールを手に二本ずつ、冷蔵庫から取り出しながら、千石は言う。桜乃は足りなくなったつまみに、と用意しておいた漬物に包丁を入れながらそれを聞いた。
「ええ、楽しいですよ」皿に盛りつけながら、桜乃は思い出したように続ける。「でも、あなたはまだ、未成年ですから、お酒はだめですよ」
さあ、行きましょう、と盆に漬物を乗せた皿を二枚用意し、桜乃は歩きだす。置いて行かれないように、千石もその背中を追った。
宴会場と化した客間のテーブルの上に千石がビールを乗せると、インターフォンの音がする。桜乃に先駆けて玄関に向かった千石は、戸の向かいに来ていた人影を確かめると、かけていた鍵を解き、空ける。日の落ちた外から、少し肌寒いくらいの風が吹いた。
「あれ、桜乃は?」
桜乃と同世代くらいの女性だった。妊娠をしているようで、その大きな腹を、無意識だろうが手で撫でている。
「ええと、あなた、もしかして、千石くんかしら?」
女性の釣り目が、確かめるように千石の顔をとらえる。思わず千石は頷くと彼女はそう、とにっこりほほ笑んだ。
「・・・朋ちゃん!」
追いついた桜乃が、千石の背中から声をかける。思わず千石がその場を退き、道を開けると、桜乃と朋ちゃんと呼ばれた女性は駆け寄って手のひらを合わせた。
「久し振り! 随分お腹、大きくなったね! 予定日もうすぐでしょ? 大丈夫?」
「うん、大丈夫! むしろ運動した方がいいんだよ」
あ、と桜乃が千石の顔を見る。「あ、朋ちゃん、こちらは・・・」
「知ってるわ。千石くん、でしょう? 桜乃が話してくれてたから、知ってる。ダンナからも聞いてたし。
千石くん、朋香です。桜乃の昔からの友達です。よろしくね」
朋香と桜乃は顔を見合わせ、はじけたように笑った。千石は、まさか桜乃が自分のことを人に話しているとは思わずに、それが妙にうれしくて恥ずかしい。どのように話してくれていたのかは、朋香の千石への態度を見ればわかる。朋香は、千石に敵意を持っていない。それは、翻ると、桜乃が自分をどう思っているかとなる。千石が桜乃へと抱く感情とは性質が異なるのだろうが、それでも桜乃に嫌われてはいないということがこれでわかる。
「朋ちゃん、今日はこれないって聞いてたからうれしい。上がって?」
「ありがとう、でもあんまり長居するわけにいかないのよ。・・・ダンナがいつまでたっても帰ってこないから・・・」
舌打ちをする勢いで、朋香は毒づいた。声を聞きつけたのか、大石が玄関へとやってきた。その腕に肩をがっちりと固められた菊丸が引きずられていた。それを見た朋香は、呆れながらため息をついた。
「あー、やっぱり。・・・大石先輩ご迷惑をおかけしてます」
大石はいいよ、と笑いながら菊丸を朋香の正面に向けた。朋香はこめかみを指で押さえた。桜乃がおろおろと朋香をなだめようとする。大石は慌てて菊丸をたたき起した。菊丸はようやく目を開ける。朋香の姿を確認すると、その大きな眼を瞬かせた後、やがて嬉しそうにほほ笑んだ。
それを目にした朋香は、薄暗い中でもはっきりとわかるくらいに頬を染める。にらみつけているその眼は相変わらず崩そうとはしなかったが、うるんだその眼では、何の迫力もない。
「明日、早いんだから・・・。帰りましょ・・」
うん、と笑う菊丸は、そう言って背を向けて歩き出した朋香を追う。あっという間に姿が見えなくなると、車を発進させる音が鳴った。
「・・・あてられちゃいました」呟く桜乃に大石が同意する。
「竜崎さんは、結婚の予定は?」
「今は、特に。・・・大石先輩は?」
「同じく」そう言って笑うと、大石は座敷へと戻っていった。桜乃はそれを見送っている。千石はそんな桜乃を見ていた。
「私たちも、戻りましょうか」
そう言った桜乃の手を、千石は掴んだ。
「朋ちゃんたちにあてられちゃいましたね」
呟くが、桜乃は振り返ろうとしない。
「桜乃さん、はぐらかそうとしてない?」
千石は掴む手に力を込めた。細い桜乃の手首は、それだけで折れてしまいそうに頼りない。桜乃は痛みに顔をしかめた。腕の痛みと、胸の痛みに。
「・・・女性を、そんなに乱暴に扱うなよ」
不二が、向こうに立っていた。乱暴に歩み寄ると、千石の手首をねじり上げる。
「桜乃ちゃんが、困ってる」
図星を言い当てられて、千石の頬は羞恥に染まった。不二の手を振りほどくと、その場を後にする。後ろは振り返らなかった。桜乃に、どういう顔をしているか、知られたくなかった。桜乃が、どういう顔をしているのか、知りたくなかった。
桜乃はその場に立ちすくむ。千石を追っていきたい気もしたが、不二の無言の戒めにからめとられたように、脚がすくんでしまっている。動くことができなかった。
「・・・千石くんに、告白でもされた?」
「違います。・・・少し、喧嘩しているだけです」
「桜乃ちゃん」
そう言って、不二は桜乃の手に指を絡めた。桜乃の指は細かった。そして少しだけ、温度が低い。もっとしっかりと感じようとし、不二はより桜乃の手の甲に自らの手のひらを近づけた。桜乃の手は、それに抵抗するかのように内側に握りこまれた。無理矢理それを割り、指と指とを絡めて、犯す。桜乃は悔しさに唇を噛んだ。俯いた桜乃のうなじが、まるで自らにささげられた供物のように不二の目には映る。唇を寄せると、桜乃が小さな声で呻いたのが聞こえた。
いっそのこと、このまま閉じ込めて、誰の目にも触れないようにしてしまいたい。馬鹿げたことを思う。
ただ、夢をたまに見る。部屋の中に、彼女がいて、彼女が帰ってくるのは必ず自分のところだという、そんな愚かしい夢を。
「・・・君が、幸せであってほしいよ」
口から飛び出た言葉は、その場にそぐわない、あまりに陳腐な言葉で、不二は笑った。
言葉にしようにも、彼の持つ言葉の網ではこの感情を掬ってやることすらできそうにない。
予備校では国語を教えているはずだった。だが、この様では講師失格だな、と不二は思った。



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