宴も終わり、辞する彼らに桜乃はついて行き、門で見送る。彼らが口々に話しているのを聞くと、どうやらこれから二次会を行うようで、用意した大量の酒を飲み干したあとなのに、と桜乃は元気だな、と苦笑した。そんな中、呆れたような眼で自らの先輩たちを見つめるリョーマが目に留まる。ちょうど一歩引いたところから傍観していた彼に声をかけた。
「リョーマくん、ご結婚おめでとう」
「竜崎。・・・迷惑かけた」
ふと照れたように押し黙り、それから謝罪の言葉を口にする。ああ、と桜乃が勘付いて、眼の前で管を捲いている「先輩たち」を見た。
「久し振りににぎやかで、楽しかったよ」
そう、と呟くとリョーマは沈黙した。多分何を言ったらいいのか、考えているに違いない。プレー中の神がかった分析力、判断力はどこに行ってしまったのだろう、と思うほどだ。彼は異性に対してそんなところがある。上手な言葉がかけられず、それで何人もの女生徒が泣いてきていたのを桜乃は知っていた。当然、彼女もその一人であったが。
懐かしくて甘い記憶を思い出しながら、ああ、そんなこともあったと、当時の幼い自分に苦笑する。あのころはリョーマがすべてだった。リョーマが、好きだった。
「リョーマくん、結婚おめでとう」
桜乃は手提げを差し出す。「中身は青汁とシェイカーだよ。健康には気をつけてね」
青汁、という言葉にリョーマは盛大に顔をしかめる。メーカー品だと教えてやると、やっと厳しい表情を元に戻した。
「・・・乾先輩のだと思った」
「ああ、乾先輩特製のほうがよかった?」
海堂と話し込んでいた乾がリョーマたちを振り返る。地獄耳だ、とリョーマは呟き、そして何でもないです、と焦ったように乾に向かって叫んだ。
「・・・竜崎、性格悪くなったね」
「成長したんだよ」
先に歩きだしていた桃城がリョーマを呼ぶ。どうやら次の目的地が決まったようだ。さんざん迷って、カラオケになったらしい。
「竜崎は?」
「うちには受験生がいるから。楽しんできてね」
「桜乃ちゃん、いかないの?! 厭だよ全員、男じゃむさ苦しい! 不二先輩は怖いしよぉ」
突然割り込んできた桃城を不二が笑いながら引きはがす。浮かべていたのはそれこそ笑い顔だが、どこか不気味な雰囲気を漂わせたそれに、桃城は押し黙る。やだな、不二先輩、冗談ですってば、などと必死に不二の機嫌を取ろうとする桃城を見て、桜乃は笑いをこらえるのに必死になる。
不二に引きずられる桃城の後を追って、リョーマは歩きだした。
「リョーマくん!」
思わず呼びとめる。うすぼんやりとした街頭が彼を照らしていた。男にしては大きな眼を開けて、無防備な表情を見せる。そのあどけない表情が、コートの上に立つととたんに獲物を見抜く鋭い眼となるのを、桜乃は知っていた。ああ、リョーマがやっぱり好きだと桜乃は思う。あのころの自分を否定することなんてできなかった。彼の影響でテニスを始めた。幸福にも中学三年間、同じクラスでいられて、そして何度か同じ委員についた。不得意な英語も、彼に近づくためと思って必死に勉強した。彼と言葉を交わした日は、嬉しすぎて眠ることができなかった。テニスコートのフェンス越しに見た彼のプレーをする姿を知っている。彼の廻りにあるものがすべて、空気ですら輝いて見えた。
「リョーマくん! 結婚、おめでとう! 私、リョーマくんのこと、大好きだったから、嬉しい」
ただただ、大好きな彼が、幸せになることがうれしかった。
突然の告白にリョーマは一瞬驚いたような顔をするが、すぐに笑う。いたずらが見つかったような表情で、はにかんでいた。ありがとう、と一言口にすると、呼ぶ桃城のところへと駆け付けた。
「桜乃ちゃん」
どこか気の抜けた声で不二が呟く。桜乃ははい、と返事をした。
「・・・それが、桜乃ちゃんの、答え?」
桜乃は何も言わずに微笑んだ。不二は何かを言おうとするが、唇をかみしめ、何も言わずに桜乃に背を向けた。



ああ、どうやったら片付くんだ、と千石は、嘘のような静けさに満ちた部屋の中でパニックを起こしながらも考える。ただ、ビール瓶だけでもかなりのもので、食べ散らかしたつまみの残骸なども手伝って、散々な有様だった。大変だな、と思いながら、とりあえず畳の上に転がっているごみをごみ箱へと入れた。
「ああ、これは大変ですね」
桜乃が千石に声をかけた。能天気な声に、千石は思わず顔を上げた。目が合うと、桜乃は目元を赤くしている。酒を飲んだだろうか、と思いめぐらせていると、みるみるうちに桜乃の目元から、笑ったままの表情のまま、涙がこぼれ出した。
まるで機械が壊れたかのようだ、と千石はふと思う。それほど、桜乃は声もなく、洟をすする音もなく、表情を変えることなく淡々と涙をこぼし続けた。
手を取って、畳に座らせる。思い出したように千石は部屋を出て行き、風呂のために用意してあったバスタオルと毛布を持ってきた。あっちこっちに舞っていた座布団を三つ持ってくると、それを隙間なく縦に並べると、桜乃も意図を理解したのか、素直に座布団の上に体を横たえた。
「・・・枕も、ひつようです」
そう言われて、千石は自分が使っている枕を持ってくるが、桜乃は首を横に振る。自分が使っているものが良いらしいが、千石にはどうも桜乃の自室に入ることが気恥ずかしい。
「余計なところはみないでくださいね」
釘をしっかり刺され、千石は恐る恐る桜乃の部屋に入り、ベッドの上にあった彼女の枕を手に取る。ふとタンスが目に入り、思わず彼女の衣服や、その下に身につけるものに誘惑されるが、振り払い桜乃の元へと戻る。
受け取った枕を座布団の上に乗せ、桜乃はいそいそと頭を横たえた。背中を丸め、脚を身体に引き寄せる。どうやら涙はもうおさまっているらしいが、桜乃は無言で横たわり、片付けをする千石を見ていた。
思ったより早く片付けが終わり、千石は卓を拭く。何となく桜乃の方を見ると、目があった。桜乃はそらさずにじっと見ているものだから、千石の方が耐えきれずに眼をそらした。
「私、リョーマくんに好きでした、って言ってしまいました」
ふきんが手からこぼれる。千石は、桜乃が一瞬何を言ったのかわからずに、ただただ瞠目した。桜乃はそんな千石の様子など気にせずにぽつぽつとしゃべり出す。まるで独り言を言っているかのようだった。
「リョーマくんには、ありがとうっていわれたんですけど。ああ、リョーマくんの驚いた顔、見せてあげたかったな。面白かったんですよ。こう眼をくわーって開いて。ああ、不二先輩も驚いてたなぁ。不二先輩には心配ばかりかけて、だめですね。私」
桜乃は目を閉じた。
「気がついたんです、リョーマくんにはあこがれていたんだって。必死でした。だって、何をやってもドジで失敗ばかり、方向音痴で駄目なわたしを救ってくれたヒーローだったんです。わたし、中学のころ、少しだけいじめられていたんです」
笑いながら思い出す。あれはたしか、夏の日だったと思う。
朝、登校し、下駄箱を開けると、上履きが水浸しになっていた。ああ、と桜乃は気が滅入るが、それをそのまま放置するわけにもいかず、とりあえず外に出した。教室のロッカーの中に体育館履きがあるが、あっちは無事だといいな。思いながら上履きを手に、誰にも見つからないように教室へと向かう。朝練を終えた彼に見つかったのはまさにそんなときだった。
リョーマは無言で自らの上履きを脱ぐと、桜乃の足元へとそれを蹴ってよこした。茫然とそれを見守っていた桜乃は、リョーマが伸ばしてきた腕でもって、抱えていた水浸しの上履きを取り上げられてしまう。それをそのまま履こうとするから、桜乃は慌ててリョーマを止めた。
「リョーマくん、それ、濡れてるから・・・!」
「朝練やりすぎて熱いから、ちょうどいい」
桜乃のサイズではやはり少し小さいらしく、リョーマはかかとを踏みつけながら上履きを履いた。桜乃はおろおろとリョーマと、リョーマの足元にある濡れた上履きと、自らの足元にあるリョーマの上履きをそれぞれ見た。
「俺、水虫ないから。・・・もしかして、竜崎が水虫?」
「ち、ちがうよ!」
あらぬ疑いをかけられ、桜乃は首を振った。リョーマはそれを見ると、そう、とだけ言って背を向けた。
「今日一日終わったら返して」
それだけ言って教室に入る。リョーマは席に着くと早速カバンを開け、買ってあったパンを食べる。ただ、桜乃もずっと立っているわけにはいかず、失礼します、と誰ともなく呟くとリョーマの上履きに足を通した。彼の上履きは、ほんの少し大きくて桜乃の足では少し余ってしまう。
パンを食べ終わったらしいリョーマは、足りない睡眠を補おうと机に突っ伏した。それを賑やかなクラスメートたちが回りを囲う。睡眠を邪魔されたために不機嫌そうな顔を見せるが、それが厭味ではないところが彼のすごさだ。ぼんやりとした表情でクラスメートたちと言葉を交わす姿を見ていると授業開始のチャイムが鳴り、担任が入ってきた。
いまとなってはただただ懐かしいだけの思い出。
「・・・大好きだったんです。リョーマくんに憧れていました。だから、彼が結婚するって聞いた時、悲しかったのですけれど、嬉しかったんです。ああ、リョーマくんにも、ちゃんと大好きな人がいて、大好きな人と結婚してくれるんだな、って」
「桜乃さんは、それで、いいの?」
「不二先輩と、おんなじことを、いうん、ですね」
眠気が襲ってきたのか、だんだんと口調が緩慢になってゆく。千石は慌てて傍に寄った。冬というには少し早い季節だが、それでも夏の暑さはもうない。夜など少し肌寒いくらいだ。いくらなんでもここでこのまま眠ってしまったら、風邪をひいてしまうのではないか。
「それで、いい、というか、うん、そう、ですね。いい、ですね。十分です。なんだか、知らないんですけど、あなたに言いたかった。頼りがい、なくて、ごめん、なさい。でも、あなたなら、ちゃんと、聞いてくれる、気がしました」
「・・・不二さんは」
「不二、先輩は、優しい、です。わたしを、甘やかせて、くれます。でも、それじゃあ、だめなんです。あのひとが、わたしにやさしくするたび、に、わたしは、なさけないんです。だって、わたし、あのひとを、傷つけてるの、しってるから」
桜乃は目を閉じた。毛布から少しだけ除く彼女の指に触れる。拒絶はされなかった。
「ああ、でも、あなたが、・・・」
やがて、うっすらと開かれた唇から、呼吸のための空気音が聞こえてきた。桜乃の寝顔はあどけない。無防備なその表情に思わず千石は見とれた。多分明日、目が腫れてひどいことになるだろうと思うと、千石は小さく噴き出した。
彼女は最後、何を言いたかったのだろう。おそらく眠気で朦朧となっていたから言えたことであって、たぶん明日になってしまったらいつもの澄ました彼女に戻ってしまうだろう。続きはもう聞けないと思う。残念に思いながらも、千石はその場から腰を上げる。彼女をベッドへと、かっこよく運ぼうとするが、意識のない人間の重さは想像以上で、千石は苦笑した。
それでもなんとか横抱きにすると、いつのまにか腕がこぼれていたようで、重力に従って肩からぶら下がる。桜乃はそれでも目覚めようとしなかった。どうやら彼女も酒を飲んでいたようで、ふんわりとアルコールの香りが千石を刺激する。頬が赤く染まっているのは、酒のためだと分かってはいるが、それでもいつもよりゆるんだ彼女の表情から眼を離すことができなかった。
ベッドにその身体を横たえる。桜乃が千石の服を握り締めていたことに気がついた。それを優しく外し、布団の中にしまってやる。彼女の額に手を触れた。前髪を上げてやると、彼女の寝顔がよりはっきり見えた。思わず口付けた頬は、想像以上に柔らかな感触を千石の唇に伝えた。



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