桜乃の携帯が鳴った。着信相手は千石だった。ボタンを押し、恐る恐る耳に押し当てる。もしもし、と桜乃が応答するのをさえぎるように、千石の興奮仕切った声が耳に届いた。その声の様子から桜乃の緊張が一気にほどける。
「おめでとうございます」
桜乃さんのおかげだよ、ありがとう、と千石ははしゃぐ。場所はどこですか、と聞くと、まだ彼は大学の構内にいると答えた。
今日は千石の志望校の合格発表の日だった。彼の受験番号は、見事、張り出された合格者一覧の掲示の中に存在していた。―彼は、合格していた。千石が夏に桜乃の元にやってきてから半年近く、長いようで短い期間であった。これで彼も春からは晴れて新しい生活を送ることとなる。新たな友人、新たな場所。年若い彼の成長を見守っているようで、桜乃はただただそれがうれしかった。―たとえ彼がいつここを離れていくのだとしても。
不意に感じた妙な違和感に、桜乃は首をかしげる。ここを、千石は出ていくのだろうか。彼は名実ともに新たな生活を始めていくのだろうか。それはこれからどんどん成長していく彼にとっては喜ばしいことなのだ。あたりまえではないか。
ふと桜乃はあたりを見渡す。
一人では広すぎるこの家。この家は、こんなに広くて静かだっただろうか?
たった半年間、一緒に暮らした千石の存在が、大きかったことを改めて認識した。いつでも彼は明るく朗らかであったから。そして、桜乃は、そんな彼が嫌いではなかった。
子供が巣立つ瞬間って、このような感じなんでしょうか、と桜乃は苦笑した。不意に黙り込んだ桜乃を心配するような声が耳元に届く。桜乃は慌てて千石に、何でもない、と明るい声を出す。
「お昼、ごちそうしますよ」
寿司がいい、とのリクエストに応え、桜乃は笑った。
「河村先輩のお店にお邪魔しましょうか。駅で待ち合わせしましょう」



「春からは、大学生ですね」
河村の寿司屋からの帰り道、満足した声を桜乃は上げた。
「うん、桜乃さんのおかげだよ、どうもありがとうございます」
立ち止まってわざわざ頭を下げる千石に、桜乃は首を振る。
「いえ、あなたが頑張ったからですよ。おめでとうございます。大学に入ったら、何かサークルに入ってください。色々な友人ができますよ」
「桜乃さんは何か入ってたの?」
「一年のころは入っていましたが、学年が上がると実験の方が忙しくなってしまったので。大学でいろんな勉強をしてください。人間関係も勉強のうちですよ」
珍しく饒舌な桜乃だった。千石は目元をほころばせる。楽しそうに喋る彼女は滅多に見れるものではない。
「ああ、あなたは結構モテるでしょうからね。かわいい彼女もすぐにできますよ」
千石は立ち止った。数歩先に進んだ桜乃は振り向こうとしなかった。そのまま淡々と歩み続ける。なぜ、彼女がそんなことをいうのか、千石にはわからない。
「桜乃さん」
呼び、手首をつかんだ。相変わらず細くて、折れてしまいそうだと思う。頼りないこの腕に宿る温かさを千石は知っていた。いつかその存在を守ってやれるだけの力が欲しい。それには、桜乃に庇護されるだけの情けない存在である自分ではいけなかった。大学を卒業し、どこかに就職をし金を稼ぎ、桜乃を守ってやれるだけの力をつけていかねばならなかった。
「・・・桜乃」
この肩を抱きしめたことがあった。千石の腕の中にいる桜乃の肩は、握ったこの手首のような細さだった。
まろやかな曲線を描く肩は、骨ばった自分のそれとは材質からして違っているようだった。このような細くて脆い存在が生きていられるのか。目を離したら消えてなくなってしまうのではないか、と千石は心配する。
ただただ、傍にいたい。離れたくなかった。一緒に生きていけるだけの力が欲しかった。
「・・・呼び捨てはやめてください」
「なんで、そんなこと、いうの」
「私は年上ですよ? 年長者を敬いなさい」
「・・・そうじゃ、なくて!」
苛々と千石が吐き捨てた。
呼び捨てのことを千石が言ったのではないことは、桜乃にも分かっていた。でも桜乃にはそれを認めることができない。認めてしまえば、千石を縛りつけることになってしまうのだ。彼には未来がある。千石の優しさに、これ以上甘えるわけにいかなかった。
リョーマへの想いを断ち切れた。もう千石にも不二にも縋らず一人で立ち上がる、と決めたのだ。誰にも頼らず、強い人間になるのだ、とようやく決めたのだ。不二にもこれ以上迷惑をかけてはいけないし、これ以上自分のわがままで千石に傍にいてもらうわけにもいかないのだ。
「アパートを借りてください。保証人にはなってあげますから。このままでは、出来たばかりの可愛い彼女も家にあげられませんよ。誤解されてしまいます」
だから、と言い募る千石に桜乃は振り返り、笑顔を向けた。とたんに千石の表情から力が抜けた。泣きだしそうだ、と眺めていてそう桜乃は思う。貼り付けた笑顔が嘘くさくならないよう、必死だった。
「・・・なんで。言わせても、くれないのかよ。子供だ、って、馬鹿にしてんのかよ」
桜乃は答えない。千石は唇をかんだ。情けなさに涙が出てきそうだ。ここで泣いてしまったら、認めてしまうようで、それだけはできない。だが、震える声を押さえることはできなかった。かっこ悪い、とそう思う。馬鹿みたいだ。
桜乃はおもむろに鍵を取り出す。千石は差し出されたそれを受け取った。
「私は、スーパーに寄ってから帰ります。先に帰っていてください」
そのまま背を向けて歩き出した。畜生、と千石はつぶやく。頑ななその背中は、一体何を考えているのか、分かりたくもない。
なんでなんだよ、とその言葉だけがただただ千石の中で繰り返される。何度も繰り返す問に、答えてくれるものなどいない。やがてただ一つ、彼女が逃げたのだということだけがわかった。
だが、逃げる桜乃を追いかけることはできなかった。また拒否されたら? 手を振り払われたら? ・・・そもそも、彼女がそれを望んでいないのだとしたら。
やがて彼女の背中が曲がり角に消える。千石はひとり取り残される。風が頬を撫でた。その場にいつまでも立ちすくんでいるわけにはいかない、とわかってはいるが、どうしても足を動かそうとすることができなかった。ぼんやりたたずんでいたら、心配した桜乃が戻ってくるのではないか、そんなことを延々と考え続けている。



桜乃は走り出す。その場からすぐにでも離れてしまいたかった。息が切れる。電柱に手をつき、息を整えていると、やがて喉の奥に熱いものがこみ上げて来る。それが目の奥までやってくるのに、時間はかからなかった。とめどなく流れる涙を止めることなどできない。せめて、と桜乃は唇を手のひらでふさぎ、声が漏れないようにただただ泣いた。泣き声を漏らしてはいけなかった。千石に聞こえてはいけなかった。心配して傍にやってくるだろう、彼は。少年とも青年とも言い難い、不思議な透明感を持った明るい彼を、これ以上縛り付けるわけにいかなかった。自分は彼を傷つけた。人を傷つけるのは、こんなにも簡単だったのだ、と改めて思う。不意に桜乃は笑いたくなり、涙の交じった妙な泣き笑いの表情を浮かべる。これでひとりだ。もう、誰にも頼らないのだ、とそう思った。強くありたいのだ、欲しいものなどなにもないのだ、と思った瞬間、千石の存在が急に重く心にのしかかる。
朝、おはよう、という相手。会社にでかける前に挨拶をする相手。夜、帰宅してからただいまを言う相手。食事を共にし、おやすみ、という相手。家に帰ればいつも彼がいた。電気のともった明るい中に、彼はいつでも自分を待っていた。冗談を言い合い、笑い合った。千石が、桜乃を何の先入観もなく、桜乃自身を見ていてくれたのだと初めて分かった。手を差し伸べてくれていたのだと初めて、理解した。
だが、その差しのべられた手を振り払ったのは桜乃自身だ。振り払っただけでなく、言ってはいけないことを言って、千石を傷つけた。
「わたし、馬鹿だ」
彼と自分との道はもうすぐ別れるだろう。彼はきっとあの家を、桜乃の元から出てゆく。このままごとのような同居生活もこれで終わる。千石は、桜乃が言ったとおり、可愛らしい彼女を見つけて付き合いを始めるだろう。彼を取り巻く環境を理解しながら、桜乃には決して築けなかった、優しくお互いを思いやるような関係をゆっくりと築いて行くだろう。
厭だと叫びたかった。叫んで、その手を掴みたかった。千石の手が欲しかった。
「あ、あ、あ」
意味なく声が漏れる。千石の名を呼びたかった。だが、それでもそれだけはできなかった。彼の保護者になるのだ、とそう決めたのだ。保護者は子供には縋らない。愛ではあるが、恋ではない。あたりまえだ。どこの世に子供に恋煩う親がいる? いたとしても、おかしな歪んだ関係のはずだ。もはや正常な関係ではない。
やがて桜乃はこぼれる涙を手のひらに強引に吸わせ、立ちあがる。なりふり構ってはいられなかった。ここで立ち止まっていても仕方ない。ひとりで立つのだ、とそう決めた。これをひとりで立つ、始まりとするのだ、とそう決めた。
空を見上げる。抜けるような空には雲ひとつない。
風が吹いた。頬を揺らした風が、一緒に涙も乾かしてくれるといい、とそう祈る。



数日後、千石の引っ越し先が決まった。あっけない別れの言葉に、桜乃は笑った。つられて千石も笑って、それから通り一遍の感謝を告げる。
玄関の戸を千石は閉めた。それをじっと桜乃は見守っている。
やがて戸は隙間なくぴったりと閉まる。それが二人の別れだった。



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