四月当初の新年度独特の浮ついた雰囲気が落ち付き、そろそろゴールデンウィークが始まろうかとしているころだった。
桜乃は休日に不二に呼び出され、指定された場所へと出向く。待ち合わせ場所は駅前で、すでにあらわれていた不二は、桜乃の姿を目にすると、そのまま改札口に入る。いぶかしむ桜乃に、あとについてくるように目線だけを送る。桜乃は走るように不二に追いつくと、そのまま隣に並ぶ。不二の横顔を見てみるが、彼は口元を引き締めたままだった。
電車に乗っている時間は、わずかな時間だった。下車する不二について桜乃も降り、そしてその懐かしさで胸がいっぱいになる。母校の、青春学園の最寄駅だった。
思ったとおり、彼は青学への道をたどっていた。卒業してから一度も訪れなかった校舎が目の前にある。記憶の中にある様子とさほど変わっていないように見えるが、たぶんあのころのあの場所とは違っているのだろう、と明確ではない寂しさも少し感じた。
不二に連れられて職員通用口に回る。そのインターフォンを押すと、しばらくしてから返答がある。二、三言交わすと鍵の開く音がした。門を開け、桜乃を促す。桜乃は中に入り、あたりを見渡す。するとあのころの思い出が頭の中に溢れ出てきて、思わず震えてしまった。今の自分から見たら、あのころの自分は一生懸命すぎて馬鹿馬鹿しいだろう。だが、今はそれが少しだけうらやましい。学校へ行って、勉強して、クラスメートたちと会話をし、朋香と遊び、部活をし、そしてリョーマのことが好きだった。今の桜乃には守らなければならないものが多すぎて、考えなくてはならないことが多すぎて、そしてあのころに比べて自分を殻で覆うことを覚えてしまって、もはや、あのころのまっすぐさはもう取り戻せない。
「不二先輩。・・・教室へ、行きたいです」
そうねだると、不二は軽く笑って桜乃をあの教室へと案内してくれた。一年のころに使っていた、あの教室へ。何年ぶりだろうか、と桜乃は覗く。使っていたころの教室とは、その掲示物一つとっても記憶にあるはずもなく、本当に同じ教室なのかと疑ってしまうほどだ。
「ただ、窓から見える風景だけは一緒ですね」
「・・・そうだね」
不二は教壇の上に、黒板を背にして立った。
「本当の先生のようですね」
からかうような桜乃の声に、不二は納得したようにああ、と呟き頷いた。「言ってなかったかな。僕、春から青学の臨時教師なんだ」
「だから警備員のかたと門でお話されてたとき、大丈夫だったんですね」
頷き、桜乃は近くの椅子を引き、腰かけた。
不二が桜乃の名前を呼んだ。桜乃が返事をすると、不二は笑った。そして笑いながら唇を動かした。
「今はまだ臨時教師だけど、秋に正式採用試験の受験もすすめられてる。・・・合格したら一緒に暮らしたい。ずっと好きだった。分かってたと思うけど」
呟いた不二の表情は穏やかな表情だった。
桜乃はそれに答えることができずに、黙りこんでしまう。彼には言われてしまった、と思った。千石には言わせなかったのに、とぼんやり考えた。
共に暮らす。誰と。不二と。千石ではない、不二と。
たしかに不二と一緒であれば、幸せに暮らせるだろう。何不自由なく。真綿でくるんだように、大事に大事にしてくれるだろう。今までのことを、不二がどれだけ桜乃に心を砕いてくれたのかを考えれば、彼の元へといくのは当然の選択だ。誰だってそうするだろう。
だが、と桜乃は思う。千石の姿が頭の中によみがえる。いつかは思い出さなくなるだろう、あの半年間は、忘れるにしては時間が足りなさすぎる。まだ生々しく桜乃の中に残っている。掴まれた腕の皮膚が、体温を覚えていた。耳が覚えていた。眼に焼き付いた姿は、そんなに簡単に忘れるものではない。いつでも明るく無邪気だった。彼はいつでもまっすぐに桜乃を見てくれていた。最初は彼を手助けしてやりたいだけだった。それがだんだんと見守ってやりたくなる。傍にいて話しているのが楽しかった。リョーマへの想いに決着をつけることができた。十年抱えていた想いを捨てても、彼が傍にいると思うと寂しくなかった。
涙がこぼれ出した。鼻が詰まって声が濁る。桜乃はそれを隠そうと窓側を向いて、なんとか涙を止めようとするが、涙腺が壊れてしまったようで、止まらない。不二が教壇を降りて桜乃の傍に立つ。ハンカチを取り出し渡した。
「さすがに泣くほど嫌っていうのも、ショックだね」
「ごめんなさい、先輩のことが嫌だとか、そういうのではなくて」
桜乃は相変わらずボロボロとこぼれる涙を拭いている。拭っても拭っても止まる気配なんてない。
不二はそれを優しげに見守っている。そしてため息をついた。
「・・・僕は言ったよ。桜乃ちゃんに。今度は桜乃ちゃんが桜乃ちゃんの言いたい人にそれを言うべき番だよ。大人は常に子供の見本になるように行動しなきゃ、いけないよ」



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