築十五年と少し古いが手入れの行き届いた木造アパートの家賃は三万円だった。周囲の家賃相場と比べ、安すぎるほどの安すぎるのは、この部屋が実は曰くつきである、とかそんな理由ではない。千石の事情を知った大家が特別価格だと言って五万五千円だったはずの家賃を割り引いてくれたのだ。
そのアパートの右から二番目が千石の部屋だった。疲れて下がる肩を無理矢理に回すとぼきぼきと骨が鳴る。千石はため息をつきながら鍵をあけると、電気もつけずにしきっぱなしの薄い布団に倒れ込んだ。仰向けになると、擦りガラス越しに月の光が顔を照らす。戸をあけて外を見ると、黒い夜を切り取るように丸い月が浮かんでいた。
そういえばこうやってたまに外を見ているのが好きだった、と千石は思う。浮かぶ月をぼんやり見上げる彼女の背中が蘇る。今頃こうして月を見ているのだろうか、と千石は手を伸ばす。広げた手のひらで月が隠れてしまった。だが、その満月は、隠した手のひらを越えて千石の目にその柔らかい光を届ける。もう一度大きく息を吐くと、振り切るように窓ガラスを閉じる。しっかりと鍵をかけて、千石は窓に背を向けた。
そのアパートに襲撃者が現れたのはその週の週末のことだった。土曜日にも関わらず、ちょうどその日は休みだった。その代わり、今度の5月の連休は全くと言って休みはなかったのだが。稼ぎ時だから多少きつくてもよいのだが。
インターフォンに呼び出され、千石は玄関を開けた。そこにはいつぞや目にした覚えのある女が、仁王立ちしている。記憶の中から、かろうじてその名前を引っ張り出した。
「あー、ともこ、さん? ともかさん、でしたっけ? すみません」
「朋香よ。まぁそんなことはどうでもいいの。・・・あなた、今日これから何か用事ある?」
「ありませんけど」
「じゃあ、来てほしいところがあるの。すぐに準備して」
車に乗り込むと、シートベルトを締めるように言われ、従った。行先が気になったが、それを聞ける雰囲気ではなかった。千石は所在なく車内を見渡すと、乳児が乗っているというステッカーが貼られているのを見つけた。そういえば、前に会ったときは大きなおなかをしていたと思い出す。
「赤ちゃん、うまれたんですか。おめでとうございます」
「ありがとう。・・・今はね、ダンナが見てるから心配しないで。それより」
朋香はバックライトに映る千石を見る。一瞬だけ見て、それからまた運転に集中するように前方を見た。
「きみ、桜乃のこと、冗談とかじゃないよね」
いぶかしげに訪ねられた声に、千石は思わず頭に血が上る。無理矢理どこかへ連れて行こうとしている上に、失礼ではないか、とそう思う。千石は窓の外を見た。額に手を当て、なんとか落ち着こうとする。そしてようやく、ふれらましたけどね、と一言呟いた。
「ならよかった」 それから朋香は何も発せようとはせずに、運転を続けた。千石も窓の外を見ながらぼんやりと過ぎ去る景色を眺めている。
やがて、学校の前に来ると朋香は運転を止めた。千石が一年前まで通っていた、校舎が目の前にあった。
中学高校が同じ敷地内にあり、さらに生徒数も多いため、広くて大きい建物だった。そこから小さな人影が二つ現れた。間に合った、と朋香が言って、その人影に向けてだろうか、手を振った。気づいた人影が手を振り返したようだった。不二、だった。その後ろに隠れるように俯く女は、桜乃だった。やがて近くに来ると、桜乃の背中を不二が押した。千石の目の前に桜乃がよろけながらやってくるが、桜乃は千石から顔をそむけたままだった。眼が心なしか赤い。口を尖らせながら膨れる様は子供のようだった。桜乃の澄ましたようないつもの表情とはえらい違いだ、と千石は口を押さえて噴き出した。
「じゃあ、あたしたちは帰るから」
言うが早いが、助手席に不二を乗せ、すでにエンジンをかけ始めていた車に桜乃は近寄った。ええ、だとか、ああ、だとか呻く声は明らかに動揺していて、千石は笑い出してしまうのを止められない。桜乃の抗議には一切耳を貸さずに、朋香の運転する車は走り去ってしまった。桜乃は千石を睨む。視線があってしまうと、慌てて桜乃はその視線をそらした。
「お、お、お久しぶりですね!」
素っ頓狂な桜乃の声に、千石は笑う口元を見られないように手のひらで押さえた。だが、その目が笑ってしまうのまでは止められない。桜乃は相変わらず明後日の方を向いたままだった。だが、その顔は耳までうっすらと赤く、熱が出たようになっていて、しかも目元はその熱のせいでうっすらと涙すら浮かんでいた。小柄な彼女の体によく合う小さな手は固く握りしめられて、緊張の度合いを千石に伝えている。それはこの空間に自分がいるせいだ、とも分かっていた。桜乃が自分を意識しているというのは、彼女はあくまで隠しているつもりなんだろうが一切隠れていなかった。糸の張りつめた緊張の中でようやくその場に崩れ落ちずに立っているという様相だった。少しでも触れてしまえば途端に彼女の針は振りきれてしまうだろう、とそう思った。
そして、針を振り切らせてしまうのも自分だと、千石にはわかっていた。時折千石の様子を伺うように眼を動かし、そしてすぐに戻す、それを飽きずに繰り返している。いくら鈍くても、彼女の行動を見れば一目瞭然だろう。いっそのこと、この糸が切れたら彼女はどうなるのだろう、と好奇心に駆られ、千石は桜乃の手を掴んだ。
桜乃は走りだそうとした。だが、腕を掴む千石の手は、それを許さなかった。限界まで腕を伸ばし、そして彼女は振り向いた。目を見開き、首を振る様はまるで恐怖に駆られたそれのようだった。まるでものすごい嫌われているようだと、千石はその表情に少しだけ傷つき、手を緩めた。桜乃は力が緩むやいなや、反対の手で掴まれた場所を庇うようにして胸に抱え込んだ。
そしてその場に座り込んだ。体中からすべての力が抜けてしまったようだった。千石が慌ててそばに寄る。大丈夫か、と声をかける。とりあえずここは路上だ。人通りも車通りも少ないとは言っても、いつやってくるかわからない。千石はしゃがみこんで桜乃の肩を掴んだ。そのまま起こそうとした瞬間、彼女は身体を千石の方へ傾け、首を伸ばし頬に唇で触れた。



「それにしても」と車のハンドルを握りながら朋香は言った。助手席には不二が乗り込んでいる。ただ、朋香からはその表情をうかがい知ることはできなかった。
「先輩みたいな人を振るなんて桜乃も贅沢ですよね」
不二が朋香を見る。険しい表情だと思っていたが、案外すっきりとした表情だった。
「そうだね」
それだけ言って、不二は笑い声を軽くあげる。「結果報告は、聞かなくても大丈夫だろうね」



千石は頬を押さえて尻もちをついた。
「・・・なんです、その鳩が豆鉄砲をくらったような」
「ええ、だって、ええ? 桜乃さん、そんな、ハレンチですよ」
「もうすぐ三十の女にいう言い草ですか」
桜乃は立ちあがる。ついた埃を払うと、千石に手を伸ばした。
「不二先輩に一緒に暮らそうって言われたんです。でもそのとき、浮かんだのがあなたの顔でした。・・・正直、あなたとリョーマくんへの感情は違うんです。でも一緒にあなたと一緒にいたいと思った。たぶん、好きなんでしょうね。なんだか泣きそうです。いまさら遅いというのはわかっているんですが」
千石は桜乃の手を取り、そして引っ張った。バランスを崩した桜乃はあっさりと千石の腕の中に転がり込む。路上ですよ、と慌てて窘める声がする。自分でもそんなことは分かっている。人が偶然いないからいいようなものの、通りかかって見られてしまったらかなり恥ずかしいと思う。だが、それでも彼女を抱きしめる腕に力を込めずにいられなかった。我慢していた感情があふれてしまって、こうでもしていないと千石自身、泣き叫んでしまいそうだった。
「桜乃さんのバーカ、遅いよ、遅すぎる、待ちくたびれたよ、本当」
「ごめんなさい、・・・清純くん」
優しげに呟かれた名前に何かが弾け飛んだ音がした。関をきって涙が零れ落ちる。あとは声にならなかった。ただ、腕の中にいるあたたかな彼女の体だけが、背中を優しく撫でてくれる彼女の腕だけがすべてだった。
「帰りましょうね、一緒に」
頷くことが精一杯だった。桜乃が優しく笑う。
やがてようやく立ち上がると、どちらともなく指を絡めて握り合った。



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