「冗談言わないでください、からかっているんですか」
できる限り冷静に諭すように、こんな質の悪い遊びをする目の前の少年に、桜乃は言った。自分の言葉なんかで、彼がどんな不謹慎なことを言っているのか気付くとは到底思えなかったが、それでも少しの恥ずかしさを植え付ければいい、と桜乃は考える。
「うーん、本当なんだけどなぁ。・・・って、全然信じてないね、その顔じゃあ」
苦笑いを浮かべた少年が頬を掻いた。そしてよい考えを思いついたというように、彼は歩き出す。付いてきて、と強引に手を掴まれた。腕を引っ張られ、思わず脚が前に出てしまう。少年は桜乃の様子を気にせずに、近くの砂場まで来ると、そこで歩みを止めた。急に立ち止ったものだから、ちょうど真後ろにいた桜乃は、ぶつからない様に足の裏で地面を踏みしめた。砂場からあふれた砂が、スニーカーの裏でこすれて大きな音を出す。そう言えばこの人の足音が全く聞こえなかったと思った。思い当った瞬間、桜乃は目を閉じて首を左右に思いっきり振った。多分忍者か何かの末裔で足音を出さずに歩くことができるのだろう、これぞ本当の「忍び足」だ、と無理矢理にでも思い込む。まさか、彼の言うように幽霊だなんて非科学的な。先週見たテレビじゃあるまいし。うん、絶対そう。ほら、この間、私、忍者の漫画読んだじゃない!
自分を納得させようと必死だった桜乃は、砂場の上に立つ少年が何度も呼びかけていたのに気が付かなかった。焦れた少年が、桜乃の肩を掴んで無理矢理に意識を向けさせるまでは。桜乃が、自分の姿を見たということに満足したらしい少年は、大きく笑うと、自らの足元を指差した。平坦な砂場のちょうど真ん中に彼がたっている。
そこからおもむろに一歩足を踏み出した。二歩、三歩と続く。
「ほら、見て」
促されて桜乃は彼の歩く足元を見ていた。彼は白の詰襟タイプの学生服と同じ色のズボンを身につけ、茶色いローファーを履いている。その足元の砂には彼の靴とぴったり合さる足跡が残されていなけれなならないはずだったが、砂場は何事もなかったかのように、その表情を変えない。彼がどれだけ砂の上で歩き回ろうとも、足跡が付きやすいはずの乾いた砂の上には、全くなんの痕跡も残されていなかった。



新学期が始まる室内には、どこかはしゃいだ空気が混じっている。長い夏休みを利用して、海外に行ってきたらしいクラスメイトは、お土産を桜乃の元にも配りにきた。礼を言って受け取ると、真っ黒に焼けたその子はにっこり笑って手を振った。そして次の子のところへと向かっていく。そんな彼女は、教室に入ってきた少女とも挨拶をし、桜乃と同じお土産を手渡している。二、三言、会話を交わし、お互いに手を振って室内での近しい別れを告げた。土産を受け取った少女が桜乃の席の目の前に鞄を置き、にっこりと笑いかけた。
「桜乃、おはよ!」
「朋ちゃん」
朋香は、最初こそにこやかに笑っていたが、すぐにきょとんとした顔で訊き返す。
「・・・桜乃、あんた酷い顔してるよ」
さては、緊張して眠れなかったな、などと朋香がからかう。本当の事を言ったところで理解できるはずもないだろうし、この優しい親友に心配をかけさせたくもなかったから、桜乃は苦笑を浮かべた。
「うん、まぁ、そんなところ。今朝、ちょっと早起きしちゃって。ほら、久し振りの学校だし」
朋香は納得したように、笑い、そしてポケットから飴を出した。彼女の体温と外の温度でほんの少しだけ温かい。手のひらに載せられた小さな包みと朋香の顔とを交互に見比べた。
「お見舞いだよ。とりあえず今日は午前中だけだし。今日は早く帰ってちゃんと寝なさいよ」
ありがとう、と言って桜乃は笑った。うん、と朋香も同じように返す。飴の包装を破り、口に含むと、甘酸っぱい味が口の中に広がった。美味しいと素直に思う。
「ふーん、そんなにおいしいなら俺も食べたいな」
耳元に直接聞こえた声に、桜乃は思わず椅子を引いて後ろを振り返る。真向かいにいる朋香が、不思議そうに桜乃の振り向いた先を見た。
「桜乃?」
どうしたの、と声をかけた朋香に、桜乃は曖昧な笑顔を向けた。体調悪いんじゃ、という朋香に大袈裟に首を振って見せた。
「ううん、大丈夫。ちょっとトイレ行ってくるね」



人気のないところを探すが、なかなか見つからず、桜乃はようやく校舎の裏の片隅に絶好の場所を見つけた。そこはテニスコートのすぐ近くだったが、あと15分ほどで朝のホームルームが始まろうとする時間だ。とっくにテニス部の朝練習は終わっている。この時間はこんなにこのあたり人が少ないんだな、と桜乃は思った。
「大丈夫? トイレ行くんじゃなかったの?」
目の前の少年がそう言った。黙っていれば格好の良い彼は、桜乃を茶化すように腰に拳を当て、胸を張っている。最近よくテレビに出ている芸人のようだ、と少し思った。その芸人も強引なマイペースが売りのボケだった。当然目の前にいる彼にそれを言ったら、怒りだすかもしれなかったが。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・千石さん、誰のせいだと思ってますか」
俯いたまま拳に力を入れる。ぶるぶる震え出すのを桜乃は止められなかった。
「うーん、なんのこと? 桜乃ちゃんの寝不足のこと? ま、それは俺のせいかなぁ。こんなイケメンがそばにいるから緊張して眠れなかったんでしょ。まぁ執事みたいなもんだと思って。最近そんなドラマやってたでしょ。学園物の」
この男は自分のことをあのイケメン俳優と同じだとでも言いたいのだろうか、寝言は寝て言ってください、あ、幽霊だったから眠れなかったんですね、ごめんなさーい。
「声に出してないつもりだろうけど考えてることは何となくわかるよ桜乃さーん」
苛々に任せて、桜乃は震える拳で校舎の壁を殴った。
その瞬間、壁はあっけなく崩れ落ちる。崩れたコンクリートが、乾いた砂をもうもうと巻き上げ、二人の間を遮った・・・はずもなく、打ちつけた左手がほんの少し赤くなっているだけだった。おまけに少し痛い。
右手でさすりながら、桜乃は目の前の少年を見上げる。
「せーんーごーくーさあぁぁーん?」
「しっ、誰かに声聞かれちゃうよ。このままじゃ校舎の影で恨めしそうに誰かの名前を呼ぶ女って、この学校の七不思議に数えられちゃうよ!」
「誰のせいだと思っているんですか、って聞いているんです!」
昨夜からのフラストレーションがどうも溜まっていたらしい。慣れぬ大声を張り上げてるせいか、どっと疲れを感じる。心なしか肩が重い。それは昨夜から取り憑かれているせいだろうか、とも思う。



昨日の夜、砂場での彼の行動を見てから、どうやって家に帰ったのかよく覚えていなかった。気が付くと、帰宅していた父親と、母親とでカレーを作っていた。もちろん、自分が買ってきた福神漬が皿の脇に添えられている。余りは小鉢に入れられ、テーブルの真中に置かれていた。その中にステンレスの小さなスプーンも添えられている。
夕飯を食べ終え、二階の自室に向かう。机の上には、一緒に買ったお菓子の箱が無造作に置かれている。ああ、あれはやっぱり夢だったんだろう、と桜乃はクローゼットの中から、替えの下着を取り出した。早く寝てしまおうと風呂に向かう。髪を洗い、体を洗い、浴槽に浸かる。さっぱりとした状態でパジャマを身につけ、部屋に帰った。早く寝てしまおうと思い、ベッドに倒れ込む。倒れ込んだ瞬間、視界の端に見えてはいけない何かが目に入った。恐る恐る視線を遣ると、そこには、夕方奇跡の忍術を披露してくれた少年が、部屋の隅に正座をしていた。
恐怖で声も出ないとはまさにこのことだった。いつのまに部屋に忍び込んでいたのだろう、と桜乃は混乱する頭の中で考える。
「落ち着いて」
彼は言った。「何もしない。だから俺は君からこうやって離れてる。お願いだ、話を聞いてくれ。・・・君だけが頼りなんだ」
つらそうに唇を噛む彼に、緊張が身体から抜けていくのを桜乃は感じた。彼は今までに見たことがないくらい辛い表情をしていて、なんだかそれが桜乃の心の中に直接伝わってきたのだ。
「・・・とりあえず、話を聞きます。何かあったら声を出します」
幽霊相手に大声を出す、という手段が通じるのかはわからなかったが、とりあえずそう言うと神妙な表情を浮かべ、彼はうなづいた。我ながら、女の部屋に忍び込んでくるような変質幽霊を相手に、随分な回答だとは思うが、とりあえず話を聞くが一番だと思ってしまった。自分に対して何か危害を加えるような人間(幽霊だが)だとはどうしても思えなかったのだ、彼が。それは、この、彼が浮かべる晴れやかな笑顔のせいかもしれなかった。どうしても裏があるような表情だとは思えなかった。もしかしたら自分は騙されやすい人間なのかもしれない、と桜乃は思う。次からは気を付けようと密に決意を改めたところで、彼がおもむろに語り出した。
「とりあえず、さっきの砂場の件で、俺が幽霊だって何から説明したらいいのかわかんないけど、気が付いたら俺、幽霊になってた。二、三日前に突然。で、ふらふら彷徨ってたら、あの公園に引き寄せられてた。どうもあの辺何か強い作用が働いているみたいだね。そこにいたら、なんか俺、人に見えるようになったみたいで、そしたら変な噂立っちゃって、あのあたり人が来なくなっちゃったんだ」
ここ数日間噂になっていた学生服の少年とは彼のことなのだろう。もうあんな幽霊ホイホイな公園には二度と足を踏み入れないことにする。
「どうしようかな、と思ってたんだ。ぼんやりブランコ乗ってるのもアレだったけど、お腹もすかないし、まぁいいかな、と思って。でも退屈だったんだよね。いい加減、将来(死んでるけど)を考えだしたころに、君が来た」
帰りにショートカットを選んだ私、ばーか! 盛大に罵ってやりたかったが、両親に聞かれるわけにもいかず、ぐっと堪えた。
「俺がちゃんと見える人、君が初めてだったんだ。俺、嬉しくて嬉しくて。嬉しさのあまり取り憑いちゃったみたい」彼は少しだけ頬を染めた。「突然で迷惑してるとは思うけど、これから一緒にいてほしい。俺を成仏させてくれないか。・・・てこれプロポーズみたいだね、恥ずかしいな」
「ふーん、あっそ」
「って酷い! 何それ! そんなに性格悪い子じゃないでしょ!」
今にも泣きそうな表情をして抗議する彼を、桜乃は一瞥した。
「何がプロポーズですか、勝手に取り憑かれてこっちは迷惑してるんです。この世に未練なんか残さないでください。どうせ大した未練じゃないんでしょ? 漫画ですか、ドラマですか、映画ですか、小説ですか? ・・・はぁ、とりあえず気になってるのリストアップしてもらえますか?」
そう言って桜乃は、近くにあったカバンを引きよせ、中から生徒手帳を引っ張り出した。メモページを捲って、ボールペンと一緒に渡す。
「それ、触れますよね。・・・幽霊は寝なくてもいいんでしょう? とりあえず一晩考えてみてください」
きょとんとした表情を浮かべ、桜乃を見上げた。半泣きになっている眼をそのままに、彼は渡された手帳とペンを恐る恐る手に取った。本当に信じてもらえるとは思っていなかったのだろう、怖々と彼は桜乃を見上げた。立場が逆だと桜乃はぼんやり思い、溜息を吐いた。
「竜崎、桜乃です。あなたも名前を教えてください。幽霊さん」
未だに呆けたような表情をしている。はぁ、ともう一度溜息を吐き、部屋の電気を消し、ベッドに潜りこんだ。彼が「未練」を手帳に書くのに困るだろうか、とも思ったが、まぁなんとかするだろう。何と言ったって幽霊なのだし。
「・・・千石、きよすみ」
「へぇ、どんな漢字書くんですか」
「清らか、と、純粋の純」
「・・・きれいなお名前ですね」
ふと彼の、千石さんの両親が気になった。幽霊の実年齢なんてわからなかったが、たぶん自分とそう年は変わらないだろう。せいぜい三、四歳年上なだけだ。自分たちの息子を、こんなにも早く亡くしてしまった。彼は今はこうしているが、もう両親や友人たちと生きて言葉を交わすことはないのだ。そう思うと、胸に僅かな痛みが落ちてくる。
このまま同情して泣いてしまうのは簡単なことだったが、それは今の彼に対してとても失礼な気がして、鼻の奥にこみ上げた熱さをやり過ごす。
「とりあえず、今度、お祓いで有名な神社に行ってみましょうか」
「え、強制成仏・・・」
いやだな、痛そうだから、とベッドに横たわる桜乃に、千石はおろおろしながら近づいていった。
「ねぇ、桜乃ちゃん、桜乃さま、桜乃大先生、そういう痛いのはやめておこう? 俺、Mじゃないし。って、桜乃ちゃん、実はS・・・」
部活で鍛えた腹筋を使って、桜乃はその場に起き上る。むくっと上がった上半身に、千石は驚き、一歩下がる。
「・・・とりあえず、眠るときは部屋から出て行ってもらえませんかね。幽霊といえど、ケジメです。それと勝手に人をSとか言わないでください」
「は、はい」
じゃあ、屋根にでもいるね、とカーテンの閉められていない窓をすり抜けて、千石は外へと出て行った。ガラスをすり抜ける彼はやはり幽霊なのだ、と改めて実感する。もう彼は死んだ人間なのだ。おそらく彼の両親は、彼が亡くなった時に、彼の体を荼毘に付し、立派な墓を作っただろう。だが彼にはああやって意識がある。おそらく、彼はその際、自分のために営まれる葬祭と、嘆き悲しむ両親や友人たちの姿を見たのではないだろうか。ああやって幽霊として意識があるというのに。それは酷く切ないことなのだろうが、桜乃にはそれをうまく表現することができないでいる。
月明かりが室内を薄く照らす。今晩、雨が降らなければいい、と眠りに落ちていく中でそう祈った。



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