二学期の始業式からあっという間に一ヶ月経ち、青春学園中等部文化祭の当日を迎えた。本日と明日の土日に開催される。九時の開催時刻をあと一時間後に控えた桜乃は、浮ついた空気の教室を離れ、プールの女子更衣室で血のりメイクを施されていた。
顔をはいずりまわる筆先と塗料のくすぐったさに、思わず笑い出しそうになっているのをようやく耐えている。桜乃の顔へ筆を走らせている真剣な表情の女子生徒は、入念なチェックを終えた後、満足そうな顔で頷いた。できた、という声に桜乃は恐る恐る目を開ける。見せられた手鏡に移りこむのは、普段目にしている自らのものではない。この世に怨念を残したまま死んで成仏できずにいる少女の幽霊だった。
「やっぱりこの長い髪は生かすべきよね!」
とりあえず苦笑を浮かべてありがとう、と返す。長い髪が適任、ということで幽霊役に満場一致で決定してしまった桜乃は、今回ばかりは少しだけこの髪を恨んでしまっていた。
その、普段はおさげに結われている髪は解かれ、わざと逆毛を立てて乱雑にセットしてある。癖もさほどなく、さらに重めの桜乃の髪は、普段はうらやましがられるのだが今回ばかりは幾度セットしてもストンと重力に逆らわずまとまってしまうため、今の姿を作るのがかなり大変だったようだった。
着崩した白っぽい浴衣は、おはしょりを作っていないため長めの浴衣のすそは引きずってしまっている状態だった。帯は当然締めておらず、紐を腰に巻きつけて左右を合わせているだけだった。インナーは当然着てるのだが、着物を支えているのがたったの紐一本というのは何とも心もとない。皺にならないよう、桜乃は胸元を押さえた。
着替えの間はさすがにどこかへ行っていてくれたらしい千石だが、今は窓の外に浮かびながら桜乃たちの様子を眺めていた。ふと目が合うと、千石は右手の親指と人差し指の指先を合わせ、小さな円を作る。そのほかの指は広げたままだった。右手をそのまま桜乃へと示した。浮かんでいる表情は笑顔そのものだった。どうやら、よく似合う、という意味のようだ。
幽霊に幽霊の格好が似合うと褒められ、複雑な気分が軽くなるどころか天井知らずに上昇し続ける。思わず教室にいる朋香とリョーマのことを考えてしまう。彼らは、一番人数の多い美術係に回っていた。桜乃が教室を後にしたころには、ほとんどすべてのセットも終わっていた。今頃はみんなで桜乃たちの到着を待っているのだろう。楽しく喋っているであろう二人の様子を思う。思い描いた彼らの様子はひどく楽しげに思えて、桜乃も彼らに交じりたいと少しだけ思ってしまう。それに、自分がうまく幽霊役なんてものをできるかどうかという自信もあまりない。身近に具体例はいることはいるのだが、彼を頼れるかと言うと全く無理な相談だった。
「はぁ、やっぱり荷が重いよ・・」
一人言のつもりで呟いたのだが、思ったより声が大きくなってしまっていたらしく、近くにいたクラスメートに肩を叩かれ励まされる。
「大丈夫大丈夫、ぼんやり立ってれば大丈夫だって。薄暗いんだし。それに他の仕掛けもあるし!」
うん、とは頷いてみるが、やはり気が重いのは間違いない。
溜息をついた桜乃を見かねてか、千石が窓をすり抜け中へ入ってくる。そして幽霊の心得とやらを沸々と語りだした。
曰く、動作はゆっくりと。
曰く、下から舐め上げるように。
曰く、うらめしいいいいいい、という表情を崩さずに。
曰く、目をぎょろっと開けることがポイントだと。
回りに人がいるため、千石の言葉に頷くわけにもそれを止めるわけにもいかず、桜乃は再度溜息を吐く。ここに適任?がいるのに、と考えるが、まさかそれを誰かに伝えるわけにもいかず、悶々としてしまう。
桜乃の準備はすべて終わったようだ。促されるまま立ち上がる。引きずっている裾をたくし上げ、歩きだした。後ろでは千石がまだ語り続けている。桜乃はもう一度溜息を吐いた。準備に時間がかかったせいだろうか、随分疲労感を感じている。千石がべらべら頭上でしゃべり続けているのも原因の一つかもしれなかったが。



幽霊役自体は、桜乃の他に男子生徒が一人扮していて、その人と一時間毎に交代をしている。休憩時間には他の場所を回ってきてもよいのだが、何となくそんな気にもなれずにいたので、空き時間は控え室にと用意された教室に行き、じっと次の時間を待っていた。緊張しているせいだろう、なんだか肩の重さが酷かった。お昼を食べていないので、空腹を感じる。だが、用意していた食事に手を伸ばすのは何となく躊躇ってしまう。お茶を口にする程度だ。桜乃はパイプ椅子の背もたれに背中を預けて体の力を抜いた。目を閉じているとそのまま眠ってしまいそうだった。ただ、今の時刻は午後三時すぎだ。文化祭は午後五時までなので、今日はあと午後四時からの出演で出番は終わるのだ。明日も当然出番はあったが、今はあえて考えないようにしている。もう少しだ、と自分で自分を励ましていると、頭上から千石の声がかけられた。
「桜乃ちゃん、疲れてる?」
あくまで明るい口調にするよう努めているようだが、声に滲む調子や、その表情でで心配してくれているのがわかる。桜乃は慌てて眼を開けた。
「あ、大丈夫ですよ。慣れないことしてるからちょっとだけ。ほら、お化け屋敷内暗いですし」
桜乃は手を振った。元気だから心配しないで、と千石に示すように。むーと唸った千石は、よい案を閃いたとばかりに笑顔を浮かべる。
「ね、桜乃ちゃん、次の出番まで三十分以上あるでしょ。俺、起こしてあげるから―」
千石の言葉は最後まで発せられずに、いきなり開いた扉の音にかき消された。思わず桜乃は扉へと顔を向ける。そこにいたのはリョーマだった。朋香ならわかるが、彼が自分に何の用があるのだろうか。桜乃には見当もつかない。
しかもリョーマと顔を合わせるのはあのレンタルビデオ屋以来だった。リョーマの意図が未だにわからない桜乃は、しばらくは彼を目の前にして冷静でいられる自信がなかったが、今は疲労感のほうが勝っているため、リアクションなどとれそうにもない。今にも閉じてしまいそうな瞼を擦りたいが、せっかくのメイクが禿げてしまうので必死に堪える。とりあえず笑ってみるが、段々と強くなる眠気に、どうも顔の筋肉が負けてしまう。
「・・・竜崎、探した」
「あ、・・ごめん、出番?」
「いや、・・違う、個人的に」
「あ、うん」
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
途切れてしまった会話は中々復活しない。千石は眠気を堪える桜乃を心配そうに見つめ、そしてリョーマを見た。
「もしかして、眠い?」
「あ、ううん! そんなことないよ、ごめんね」
別に謝る必要は、とリョーマは口内で呟くが、桜乃にそれが届くことはない。
どんどん眠気が増している桜乃の様子に、千石はもどかしげにリョーマを見る。もはや睨んでいるといっても過言ではなかった。特に用事がないのならば少しでも休ませてやって欲しいと強く思う。
「・・・少し眠れば? 時間になったら起こすから」
「え、そんな、悪いよ」
「出番中に倒れられる方が迷惑だから」
そっけないリョーマの言葉に桜乃は少しだけ表情を曇らせるが、だからと言ってリョーマがそこを離れる気もないようなので、ここは彼の言葉に甘えることにしてしまう。なるべく顔面のメイクを保護するように気をつけて、座ったまま机に突っ伏した。目を閉じるとほどなく睡魔がやってきて意識が段々と抜けて行く。感じていた疲労も抜けて行くような気がして、やたら気持ちがよかった。
「リョーマくん、ありがとう」
言ったつもりの言葉が声に乗っていたかどうかはわからない。
(そういえば、千石さんもさっき、同じことを、)
千石が浮かんでいた方に、少しだけ視線を遣った。だが、そこには千石の姿はない。窓の外には青々とした空が広がっているだけだった。
そこに彼がいないことに寂しさを感じて、桜乃は疑問に思う。だが、そのことを深く考えていられる時間はなさそうだ。眠気は既に限界だった。
そして桜乃は意識を手放した。



リョーマは眠りに落ちた桜乃をじっと見つめていた。薄くだがメイクではない隈があるのに気が付いた。桜乃が出演しているお化け屋敷内は、遮光のために窓を閉め、さらにガムテープで目張りしている。扇風機をつけてはいるが、焼け石に水だろう。室内はかなり蒸し暑い。そこに交代しているとはいえ、一時間居るのだ。驚かし役は他にもいるが、彼女は直接出ているため、隠れていられる生徒がとれるような対策(冷やしタオルなど)を取るわけにもいかなかった。そのための疲労によるものなのだろう。原因を推測するのは容易いことだった。
桜乃は微動だにしない。よくよく眼を凝らすと、微かその細い背中が上下しているのが見えるが、その動きはあまりに小さく儚いものだった。触れたら壊れてしまいそうだとリョーマは思う。この無粋な掌で手折ってしまわぬよう、恐れながらもそれでも手を伸ばしてしまった。そっと触れた肩は、自分のものとは比較にならぬほど細く柔らかく感じられる。手に残ったその感触を確かめるようにじっと掌を見つめた。
「竜崎が好きだ」
届かない告白は、開け放たれていた窓から流れ込む二人を撫でた風に乗って、どこかへと消えてしまう。
覚醒しているときに伝えられない自分に、苛立ちを感じてリョーマは立ちあがる。ズボンのポケットに両手を入れた。窓際へと進むと、そこから外の風景を見渡した。緩い風が頬を撫でる。良く晴れた日だった。秋の穏やかな太陽と、涼しく心地よい風とに囲まれて眠る彼女の姿に、愛おしいという感情が湧き出てきてしまう。枯れることのないその感情に、リョーマは少しだけ困ってしまった。



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