文化祭二日目も無事に終わり、あとは後夜祭を残すだけとなっていた。もう間もなく始まるそれのために、先ほどまではあれだけ生徒であふれていた廊下には、桜乃以外の人の姿はなかった。壁にもたれてずるずると腰を下ろす。その場に姿勢を維持しているのもなんだか億劫で、寝転んでしまいたくなるが、さすがにそれは耐えようとしていた。 確かに室内は暑かった。エアコンもかかっていたようだったが、それでも暑かった。汗が滝のように流れてきて、出番が終わるごとに用意してあった水分をあっという間に飲み干していた。最後には用意分が足りなくなり、朋香が慌てて近くのコンビニに、買いに文字通り走って行ってくれたほどだ。 だが、桜乃と交代していた幽霊役の男子生徒は、やはり同じように水分を欲してはいたが、この後夜祭へは元気に他のクラスメートたちと連れ立っていった。さほど疲れも感じていないようだった。男と女の差かしら、と、桜乃はうらやましくなる。あの体力があれば、部活の間中最初から最後までばてずにずっと練習していられるのではないか。 「その分男子のほうがハードな練習してるから同じかしら」 「? 部活のこと?」 突然耳元から聞こえた声に、桜乃は思わず振り返る。勢いが付きすぎて、もたれていた壁に、側頭部をぶつけてしまったが。痛みを訴える部分に手を遣りながら、突然現れた千石を睨みあげた。睨まれた本人はというと、いっそ快活ともいえるほどに清々しい笑い声を上げた。 「ごめんごめん、そんなに驚くとは思ってもみなかったんだよ。ぶつけたところ大丈夫?」 桜乃は溜息を吐いた。憑かれてからというものの、こうやって溜息を吐く回数がやたらと増している。 「・・・んで、どこに行ってきたんですか」 千石は一日目、桜乃が昼寝から覚めた後からずっと姿がみえなかった。二日目も終わったこの時間になってようやく姿を現したのだ。彼はいわば、桜乃に取り憑いている状態なのだから、ずっと傍にいるものなのではないのだろうか、とも思ってみるが、どうやらそういうものでもないらしい。幽霊の常識なのかしら、とも思うが、彼は数居る幽霊の中でも非常識な存在なのだろう。こうやって取り憑いている本人と楽しげに喋り、笑う幽霊など聞いたことがないのだから。 「ああ、ちょっと、母校へ」 「母校ですか」 流そうとするが、どうもその単語に引っかかる。「え、母校?!」 酷く人間臭い単語で、桜乃は思わず声を上げてしまった。とはいえ、千石にも当たり前のことだが生きていた時代に通っていた学校があるだろう。彼は白い詰襟の学生服を着ているのだから。おそらく、それが彼の通っていた学校の制服だということに、そこまで思考が行き着かなかった。 「なんだかすごい驚いた顔してるけど、一応俺も中学通ってたんだよ。山吹中学ってとこ。八月末のバス事故しらない? 俺の死因、あれ。気が付いたら病院で寝てて、動かない俺の体を上から見てたの。それからなんやかんやで色々あってあの公園に辿り着いたって訳。始めは怖かったよー、自分が死んだことよくわかんなかったんだもん。突然バスが倒れてさ。放り出されて頭打ち付けたのわかったけどそれから気が付いたらもうコレよ」 そう言って千石は足元を指差した。地面から浮いているし、影もない。しかも彼の身体は、後ろの廊下が透けて見えている。 「・・・たしか、ほぼ全員、死、・・・亡くなったって」 つい一か月前のニュースだ。口元の震えが止まらないのは、疲れているせいではない。 千石の顔がまともに見れない。うつむかせた面を上げるのすら、躊躇っていた。 「・・・すみません」 「なんでー、桜乃ちゃんが謝ることじゃないでしょ。桜乃ちゃんのせいで起きた事故ってわけでもないんだし」 「・・・ごめんなさい」 この人が生きてきた十数年間を、背負っているのだ、と思うと、酷く申し訳ない気持ちになる。思い返せば励まされてきたばかりのような気がする。この人が抱えていることに比べたら、ひどくちっぽけなことで悩んで、呆れてばかりこなかったか。 ごめんなさい、と桜乃は呟いた。うっかり涙がこぼれそうになって、慌てて涙を隠す。この人の前で泣くのは、ひどく卑怯な気がした。 多分泣けば慰めてくれるだろう。だが、それは違うと桜乃は思う。寄りかかるわけではないのだと、支えてあげたいのだと。 袖で慌てて涙を拭いた。千石はそんな桜乃の様子に苦笑する。 「今度、行ってみますか。・・・その、母校に」 千石は困ったような顔をして、前を見つめる桜乃の頭に手を遣った。桜乃は袖で鼻を押さえ啜っている。 確かに触れているのに、肉を持たないこの手では彼女の体温や感触を伝えてはくれなかった。触れたことにすら、彼女は気付かない。 やがて桜乃は立ちあがった。疲れに染められた身体はふらふらと危うげに廊下を歩いている。華奢な背中だった。傍で支えてあげたいと思うが、それは決して叶わないのだと千石は分かっていた。 自宅のパソコンでインターネットに接続し、山吹中学を調べる。検索エンジンはあっさりと山吹中学のホームページを見つけ、表示した。桜乃はそれをクリックする。ほどなくしてページが移動し、目的のページを表示した。そこには、文化祭開催のお知らせが表示されている。今度土日に開催するようだった。 部活の予定を確認すると、土曜日も日曜日も練習予定はない。文化祭の直後だから、というのがその理由だった。強豪で知られる男子テニス部と比べると女子テニス部は練習量にかけるところがある。その差が成績の差なのだろうとは思うが、今回ばかりは好都合だった。 週末行きましょうね、というと、千石は頷いた。だがその表情は複雑そうだった。 やはり行きたくないのだろうか、と尋ねてみると、千石は違うよ、と首を振った。 「・・・桜乃ちゃん、疲れてるんじゃない? 昨日今日は自分ところの文化祭、今度の土日は俺のところ、じゃ倒れちゃうよ」 「何行ってるんですか、大丈夫ですよ。そりゃ、今は疲れてますけど、さすがに一晩寝れば大丈夫ですって」 「じゃあ、日曜日は休んで」 「意外と心配症ですね、大丈夫ですって。・・・まぁわかりました、わかりました。日曜日は休みます。これでいいですよね?」 千石はしぶしぶ首を縦に振った。 「それと、ちゃんとご飯食べるんだよ、いいね」 それはこれ以上痩せたら承知しない、という意味だった。なぜそんなことを言われたのかわからず、桜乃はおもむろにウエストに手を遣った。そういえば最近スカートが緩くなっていたのだ。桜乃自身、太るより痩せた方が良いから、それに気が付いた時は内心喜んでいたのだが。 千石の剣幕が気になって、桜乃は風呂上がりに体重計を引っ張り出す。桜乃の重みを乗せた体重計は、しばらくのち電子音を鳴らし、測り終わったことを告げる。桜乃はおもむろに液晶表示部分に目を遣った。 「あれ・・?」 思わず声をこぼす。以前測った時の数字は、正確には覚えていなかったが、おおよその数字は分かっていた。 その時の数字から三、減っていた。特にダイエットを意識したつもりはない。運動を増やしたつもりもない。 「汗、掻き過ぎたのかな」 あの、滝のような汗を思い出せば何となく納得もできる。きっとあそこで大量に絞られたのだろう、と桜乃は思った。 しかも太ったのではなく、痩せたのだ。何も辛い思いをせずに痩せることができて嬉しくないはずはない。身体は別に悪いところなんて感じられなかった。ただ、今は少しだけ疲れているだけだった。 だが、あまり素直に喜ぶことができなかった。なぜかは説明することはできなかったが。ぼんやりと減った数字を見ていると、行き場のない漠然とした不安や恐怖が浮かんでくる。桜乃は急いで体重計を片付けた。 戻る|NEXT→6 |