しっかりと握りしめていたせいで、すでに皺の寄ってしまった地図と、目の前の景色とを結びつけるように、桜乃は何度も見比べた。頭上に浮かぶ千石はその様子を楽しげに見ながら、頷き笑い声を上げている。それを周りの人に変に見られないよう、少しだけ睨み上げた。すると、その視線に気が付いたようで、しかし千石は目元に涙を浮かべながら、楽しげに謝った。
「あんまりひどい形相だからさ。山吹中はここだって。丸二年通ってた俺が言うんだから間違いないよ。ほら」と千石は正門を指差した。そこには確かに『山吹中学文化祭』と記された白い立て看板がそこにある。思わず桜乃が、「あ」と声をこぼすと、頭上の千石は今度はお腹を抱えて笑いだす。
「さ、桜乃ちゃん、呆け過ぎ! 俺、窒息するから!」
「そもそも幽霊は空気吸ってないじゃないですか」
と小さくこぼした声に、千石は敏く気付き、なるほど、と手を打った。「桜乃ちゃん頭いいねえ」
馬鹿にされてるのかしら、とも思って桜乃は見上げてみるが、しかしその表情には一点の曇りもない。もちろん嘲るような色も全く見えず、思わず毒気を抜かれた桜乃は肩を落とし、活気あふれる山吹中学構内へと足を踏み入れた。

入口で渡されたパンフレットを睨んでみるが、結局どこから回っていいのかが決まらなかった。千石へは、最初に所属していたクラスへ向かうことを提案したのだが、彼自身はあまり気乗りしないようだったのか、何度聞いてもはぐらかされてしまう。三年の教室をとりあえず端から端まで全部回るということも考えたのだが、三年生は山吹中学の伝統なのだろうか、演劇を出し物にするクラスが多く、すべてを回りきるには不可能であったのだ。
だからやむなくという形ではあったが、部に関係のある場所へと向かうことに決めた。部室の位置は分からなかったので、パンフレットの構内見取り図ですぐわかるテニスコートへと向かった。
フェンスで囲まれたテニスコートの入口は開いておらず、その中に入るのはできなかった。桜乃はぼんやりと中を見ながら、その場に立ち尽くす。
ここで、部活をしていたんですね、と言おうとして、止めた。何となくそれを口にするのは憚られた。
千石を見上げると、彼はコートに背を向けたまま、桜乃の頭上をいつもと同じようにふよふよと漂っている。
桜乃も同じ様に、コートに背を向け、フェンスによりかかった。桜乃の背中の重みを受けたフェンスがしなり、金属音が鳴った。吹いている風が心地よいと思う。
「テニス部の部長はね、南ってやつだったんだ」千石がしゃべりだす。桜乃は相槌も打てず、ただ、聞くことしかできなかった。

南ってのは地味なやつでね。あ、髪型だけはツンツンしてたんだけど、でもやっぱりオーラ(?)がない奴で、地味でね。ダブルス組んでた東方ってのがいて、こいつもまぁ地味で。だから俺、地味’sなんてふざけて呼んでた。まぁウチは伝統的にダブルスのほうが強いから、本当はこんなこと言っちゃいけなかったのかもしれないけどね。まぁあいつらいい奴だし、まぁあんまりふざけてると怒られたけど、笑って見逃してくれてたんだよね。それから新渡米に喜多って奴らのペア、これは地味’sペアに次ぐナンバー2のペアだったんだ。こいつらもいい奴でね。まぁ一緒に買い食いした記憶とか、そんなんばっかりだけどただひたすら楽しかったんだよ。あ、ちなみに俺はシングルだよ。一応ジュニア選抜にも選ばれたエリートてことになってるけど。エリートって言葉に違和感あるね。うん、ごめんごめん。あ、室町くんもシングルだよ。室町ってのはまだ二年だったんだけど、結構見どころある子でねー、練習しすぎて真っ黒。いつもサングラス掛けてるからサングラス外したら逆パンダ。だからサングラス外した姿は・・・たぶんほとんど拝めないよ。壇くんってのはね、あ、桜乃ちゃんと同じ一年生なんだけど、今マネージャーやってくれてるんだよね。でもテニスすごい好きみたい。どうせだったら選手のほうやってくれないかなーて密かに俺思ってたんだよね。練習終わった後とかに見ると、たまーにひとりで壁打ちしてたりするんだよね。まだあんまりうまくないみたいで、何回も続けられるってことはないみたいなんだけど。でも壇くんが来たら楽しいだろうな、って俺いつも思ってたんだよ。でも壇くんは合宿には来てなかったから、事故には合ってないんだよ。前日になって酷い熱が出ちゃったんだって。よく小学生が遠足の前日に興奮しすぎて熱を出す、ってやつあるじゃん。あれだったみたい。でも今回のはそれで俺、ほっとしてる。だって壇くん、生きてるんだもんね。今も。あ、亜久津ってのもいてね、こいつヤンキーだから超怖いんだよー。まぁあの悪人ズラじゃあしょうがないか。でもすごいテニス上手いみたいで、伴じぃが、って伴じぃっていうのは顧問でね、なんか青学の竜崎先生・・・あ、桜乃ちゃんのおばあさんだったっけ、と知り合いなんだって。その伴じぃがどういう手を使ったのかわかんないんだけど連れてきてね。まぁ本当にめちゃくちゃ上手だったんだけど。まぁあいつは合宿来ちゃったんだよねー。来るとは思えないキャラなのに。てかあいつ部員じゃなかったんだけどね。それからね・・・

「まぁ、明日が同じように来ると思ったら大間違いだってことだよね。今を生きろってやつ。ちょっと違うか」
同じ敷地内で行われている文化祭の喧騒から置き去りにされたように、このフェンスの中は静まり返っていた。入口の鍵は、今は固く閉ざされたままだ。桜乃は手を伸ばす。千石の指に触れようとするが、その指は実体を掴むことはもちろんできなかった。こうしてこの人は確かに見えていて、確かにここにいて、確かにあの中にいたのに、と桜乃はフェンス越しでしか見れないコートの中を振り返った。なぜだか酷く泣きたくなって、でもここで泣くわけにもいかず、喉の奥にこみ上げた熱さをなんとかやり過ごそうとする。だが、とっさに築いた堤防では対応しきれなかったようで、桜乃の瞳からは大粒の涙があとからあとから零れおちてきてしまった。
ここで私が泣いても、何も解決するわけじゃないのに、と自嘲するが、それでも止めることができなかった。せめて泣き声だけは溢さぬよう、と桜乃は両手で鼻と口を覆う。顔を見られぬよう、その場にしゃがみ込んだ。
「・・・ごめん、俺の気持ちに桜乃ちゃん、引っ張られちゃったのかも」
ごめん、ごめんね、と謝る千石に桜乃は首を振った。
「違う、ただ、悲しくて、ひたすら」
「違うよ、たぶん、俺がとりついてるせいで、桜乃ちゃん、俺に同調しちゃってるだけだよ。なんか最近疲れてるっぽかったのに、無理させちゃって、ごめん」
桜乃は首を振った。謝罪の言葉を口にして欲しくなかった。
「私は、ここに来てよかったと思ってます。だって、千石さんのこと、少し知れたもの」
震える声のまま、ただそれだけを絞りだすように伝える。少しでも千石に伝わっただろうか、それだけが気がかりだった。
手を伸ばすが、なぜだか上手く腕が上がらなかった。不思議に思い。腕を無理矢理に上げてみようとした瞬間、脚が震えた。気が付くと、目の前から段々色が分解されて消えて行った。砂嵐のように解像度が低い画面が視界一杯に広がった。思わず桜乃はフェンスを掴む。だが、感触がない。指をフェンスに引っかけた音は確かに聞こえたと思うから、掴んではいるのだろう。おかしいなと思った瞬間、平衡感覚が消えた。次の瞬間に肩に痛みを感じた。目が回る。視界は相変わらずだったが、確かに地面が目の前にあるのがわかり、それでようやく自分が倒れているのがわかった。どうやら腰も打ちつけていたようで、だんだんと痛みが上ってきた。起き上がろうとするが、身体を動かす回路がまともに働いていないらしい。思考すらだんだんと鈍って行く。だが、まだ口は動かせる。声を出す感覚だけはわかる。
「もう少し、あなたのことを、本当に知りたい」
耳鳴りが酷い。自分の声すらよく聞こえない。ちゃんと言葉に出せているだろうか。単なる呻きになっていないだろうか。そう心配した。
彼が来て最初の夜に無理に書かせたリストがあった。でもそんなものではない。きちんと千石とこのまま過ごす中で、ゆっくりかもしれないが、確実に彼のことを知っていきたいとそう思った。ちゃんと聞いてくれているのか、分からないが、たぶん伝わったのだと信じたい。
千石が桜乃の名前をひたすら呼んでいる。焦ったように、壊れたおもちゃのように、ただただ桜乃の名前を悲痛な声で呼び続けた。ああ、そういう呼び方ではない。さっきみたく、笑いながら、からかいながら、でもいつもやわらかく、優しかった。そんな風に。
「・・・いつもの感じで呼んでくれたほうが、好きなんだけどな」
呟いた言葉を最後に、桜乃は意識を失った。



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