職員室には、おおよそ四人分の机に一つ、電話が置かれている。男子テニス部顧問でもあり、数学教師でもあるスミレの席の斜め前にも同じように電話がある。内線電話も兼ねるが、外線電話も兼ねている電話だった。その電話が鳴った。ランプの表示を見ると、外線からかかってきていることがわかる。
スミレはいつものように手を伸ばし、受話器を取る。そして至って機械的な応対をする。
「青春学園中等部です―――」



突然、部活動の終了を告げられ、リョーマは釈然としない顔をしながら、他の部員に交じって片付けを行っていた。背後から桃城達がしゃべっているのが聞こえる。内容は当然、部活動の終了に関することだった。
「孫ってだれ?」
「ほら、女テニの一年。先生とはあんまり似てないよなー。結構可愛いし」
「へえ、じゃあ先生病院行くんだ、これから」
孫、とは桜乃のことだろうか。病院とはどういうことだ、リョーマは思う。その二つの単語が、ぐるぐる回る。結びついてほしくないが、彼の感はその二つを結び付けたくてしょうがないとでもいいたいようだった。リョーマは思い切って桃城に声をかけた。桃城はその場にいた二年生に向かって困ったように目を合わせながらも、こういった。
「・・・桜乃ちゃんが、倒れたんだと」



眼を開けると、なぜか白い天井が見えた。なぜか自分の体の上には布団が掛けられている。左手に拘束を感じ、持ちあげてみると注射針が刺されている。チューブをたどっていくと、透明なビニールパックが見えた。表面に何か文字が書いてあるが、よくわからない。点滴という単語が浮かび、そしてそれが自分に施されているという事実を、桜乃はどこか他人事のように理解した。桜乃が寝かされているベットに添うようにカーテンが引かれていたため、室内の全容はわからなかったが、充満する消毒液の匂いも、どこかの病院の中にいるという事実の認識を促した。
桜乃は点滴が打たれていない右手を使って起き上がる。そして辺りを見回し、千石の姿を確認する。心配そうに桜乃を見守っているその姿を確認すると、なぜか酷く安心感に包まれるのを感じた。
「あ、気が付いたんですね!」
突然カーテンの向こうから少年の顔がのぞく。桜乃は少しびっくりしながらもそれに頷いた。
少年の顔に桜乃は見憶えがなかったが、年の頃は同じくらいだろうか。どうやらずり落ちてきてしまうらしいヘアバンドを片手で押さえながら、少年は屈託なく笑う。
「山吹中学一年の、壇と言います! テニスコートの前で倒れていたので、救急車呼ばせてもらったんです」
「あ、ありがとう、ございます。・・・あの」
「竜崎さん、ですよね。すみません、ご家族に連絡するのに生徒手帳、見ちゃいました」
ごめんなさい、と謝る壇に、桜乃は慌てて首を振った。
「そんな、あなたのおかげで助かりました。こちらこそ、ありがとうございます」
「でも本当によかったです。あ、ちょっとまっててくれますか?」
そう言うと、壇は踵を返した。やがて間もなく戻ってくると、カーテンの中に誰かを導きいれる。スミレの姿がそこにあった。
看護婦さんを呼んできます、というとすぐに壇は出て行った。
「・・おばあちゃん」
「桜乃ちゃん、大丈夫かい?」
「うん、心配かけてごめんね。もしかして、お母さんたちも来てるの?」
「ああ、来ているよ。一応先生から話を聞いているところさ。倒れたって聞いた時は心臓が止まるかと思ったけれど、思ったより元気そうだね。でもちょっと痩せたかい?」
「え、あ、ちょっと、ダイエットがんばりすぎちゃった! 気を付けるね!」
怪訝そうな目をしたスミレを誤魔化すように、桜乃は大袈裟に手を振った。ダイエットなんてした覚えはないが、不必要にスミレに心配をかけさせたくなかった。
「ごめんね、おばあちゃん。テニス部、途中だったんじゃないの?」
「そんなことはいいよ。あいつらには休養も大事なんだし。今日の分は別の日に振り替えるさ。あ、そうだ、こんど桜乃ちゃん差し入れでも持ってきておくれ」
「うん、分かった。ハチミツレモンでいいかな。他には・・」
と考えていると、スミレを呼ぶ声があった。カーテンの裾から覗いたのは、桜乃の母親の姿だった。呼んでみたが、どこか憔悴しているようにも見えた。スミレの表情が硬くなる。
「おばあちゃん?」
桜乃の呼ぶ声に、スミレは再び表情を柔らかくした。安心させるような笑顔を浮かべ、少し出ていくことを伝える。だが、それは桜乃に何か隠し事をしているようにも見えて、どこか落ち着かない気分にさせられる。とはいえ、ここで呼びとめても仕方がないだろう。いってらっしゃい、と二人を見送ると、桜乃はベットに横たわった。薬剤の入った点滴のバックが見える。少し睨んでみたが、それで何がわかるわけでもなく、桜乃は溜息をついた。
「・・・千石さん」
ふと、心細くなり、小さく呟いた。この名前を呟くだけで安心した。千石は、地面に降り立つと、まるで生きているかのように、スミレの使っていた椅子に腰かけた。手を延ばせばすぐに触れられるほどの距離だ。ただ一つ違うのは、その足元が透けているということだけだ。それ以外は他の人間と何一つ変わらない。
「手、握ってもらえませんか」
そう言って右手を布団から出した。千石は黙ってその手を包む。視覚には確かに触れているように見えるが、その感触はやはり感じられない。それが酷く悔しかった。だが同時に嬉しくもあった。この人が今ここにいるとわかるのは自分だけだという、独占欲が酷く満たされていた。子供じみた感情だということは分かっている。だが、どうしてもそう思ってしまうことを止められなかった。いろいろ名前が付けられそうな気もしたが、簡単に纏めてしまえば、確かにこれは恋なのだろうと桜乃は思う。
この状態が、いつまでもずっと続けばいいとだけ桜乃はぼんやり考えていた。



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