すぐに退院できるかと思っていたが、予想に反して桜乃の母親はこのまま入院するとだけ短く告げた。 どこか悪いのだろうか、と心配する桜乃に、母親もスミレも笑って心配ない、とだけ言う。これ以上の質問は受け付けてくれそうにない、と桜乃は二人の固い表情を見て理解し、喉元まで上がっていた疑問を飲み下し、笑って頷いた。 「じゃあ、もうすぐテストだから教科書とか持ってきてくれない?」 わかったと母親が言い、そしてスミレと共に病室を後にした。カーテンを開けて行ってくれたので、部屋の向かいに入院していた少女の姿が見える。目が合うと、にこりと笑いかけてくれたので、桜乃も同じように返した。 「お姉ちゃんも、入院?」 「うん。今日からよろしくね」 桜乃が入院してから二週間が経とうとしていた。 リョーマの日課に新たに追加していたのは、桜乃に授業のノートとプリントを届けることだった。 彼女の親友の朋香が持っていきたかったようだが、朋香には弟の世話があるようで、そちらを優先せざるを得なかったようだ。その代りだったのだが、リョーマにはそれで十分だった。 「竜崎、今日の分」 「ありがとう、リョーマくん」 部活動を終えてから向かうため、面会時間はほんのわずかだ。だがそれでもリョーマにとっては、毎日彼女に会えるというだけで充分だった。 「リョーマくん、いつもごめんね」 「ああ、いいよ。竜崎こそ、早く退院できるといいね。こんどの土曜日は先輩たちもつれてくるよ。見舞いたいってうるさいから」 「え、そんな! 部活とか、あるんじゃない?」 「その日は午前中だけだから。午後くるよ。それより、迷惑だったら竜崎、言って」 「ありがとう、入院中ってすごい暇だから、嬉しい」 桜乃が欠伸を噛み殺した。「ごめん、竜崎、眠い? 俺、帰るから」 瞼をこすって否定をしようとするが、身体が付いていかない。ここ二、三日桜乃は強烈な眠気を感じていた。思わず上体が揺れる。リョーマはとっさに腕を肩に廻して、そしてその肩の細さに息を呑んだ。 ごめんね、と桜乃が呟くように謝るが、リョーマはその背中をそっとベットに横たえた。 千石は桜乃に寄り添うリョーマをじっと見つめていた。彼女を抱きとめることができる腕がひたすらうらやましかった。 だが、それと同時に自分がこれ以上傍にいてはいけないような気がしていた。 「・・・成仏した方がいいのかもなぁ」 「やっとそこまで思い至ったか。遅ぇよ、バカ」 「うん、ごめん・・・て、ええ?!」 呟いただけだったのだが、思いがけず返事をもらってしまい、千石は驚いた。桜乃を見るが、今はすっかり眠ってしまっていて、声など出せるわけもない。そもそもこの声は男のものだ。彼女の声ではない。 「え、だれ、どこ?!」 「ここだよ、ここ、お前の後ろだバカ」 「バカバカいうなバカ」 振り向くと、本当に真後にふよふよ浮かぶ物体がいた。千石が目を凝らすと、だんだんとそれは人型になっていき、最終的には千石もよく知っている人物の姿となった。 「南! お前も化けて出てきたの?!」 「・・・千石、お前相変わらず緊張感ないな」 「みんなは元気してる?」 「死んでるんだから知ってるわけねーだろ」 まぁいいや、よく聞け、と南は言った。 「単刀直入に言う。お前、実は死んでない」 「え、そうなの? 南も実は生きてるの?」 「・・・俺は死んでるけどな」 南は頭痛を堪えるような仕草をした。やはり身体があるときの癖が抜けないのだろうか。これは彼がよく困ったときにする動作の一つだった。ただただ、懐かしいと思う。そして、それと同時に彼らと過ごした時間はもう戻って来ないのだと改めて知ってしまった。 「・・・みんなは」 「お前以外はあのバスに乗ってた奴は全員死んでるよ。ただ、お前は生きている。まぁ意識不明の昏睡状態なんだけどな簡単に言うと。ただ、意識のほうはフラフラしてると思ってたら生霊になってるんだもんな」 「南はなんで出てきたの?」 「お前ようやく自分の状態、本当に理解しただろ。だからようやく俺の呼びかけが通じたんだ。まぁまさか死んでまで迷惑かけられるとは思ってなかったけどな・・」 怒りを押さえた声に、思わず千石は謝った。 「まぁ、あれだ。お前は選べる。このまま身体に戻るのがいいと思うけどな。お前の身体は近くの大学病院あるだろ、あそこだ。いわゆる成仏もすることもできる。このまま成仏すれば、身体の方は間もなく本当に死ぬが。 とにかく、どちらか選ばないとその子、死ぬぞ」 死ぬのか? ・・・だれが? 南は「この子」といった。「お前」ではなく。 千石は思わず桜乃を見る。頬がこけたその姿。肌の色は本当に血が通っているのか、不思議なほど白い。あまりに息が小さく、呼吸が止まっていると言われても不思議ではない。人形と言われた方がしっくりくるほどだ。 「死ぬって、どういうこと・・? あんまり南、そう言う冗談似合わないよ」 「言葉通りだよ。お前、その子に憑依している状態なんだよ。その子にとってはそれがものすごい負担になってる。いい加減にしないと、憑り殺すことになるぞ」 自分のせいなのか。何となく自分のせいだとは思っていたが、しっかりと指摘されてようやく納得することができた。今までの状態がおかしかったのだ。彼女の疲労、そして今回の入院は当たり前と言えば当たり前、起きるべくして起きた結果だったのだ。 「・・・南は、これからどうするの?」 「まぁ、いわゆる成仏? たぶん。それから先は知らないけれど。今の俺は単なる残留思念みたいなもんらしいから、目的を果たしたら消えるんだと思うけど。目的もフラフラしてるお前をなんとかすることだったしなぁ。ああ、そうするともうすぐ俺消えるんだろうな」 あっけらかんという南が信じられなかった。千石は声を荒げる。 「消えるって、なにさ」 「知らないよ、一応消えたことないから。ああ、でもこんな状態かな」 と南は自分の足を指差した。砂がこぼれていくように、南の足は崩れて行っている。 「お前は、このまま生きることもできるんだぞ。その子と一緒に。その子が好きなんだろう? だったらそれでいいんじゃないか?」 確かに自分は桜乃のことが好きだ。だが、と千石は思う。 「まぁ、お前のことだから、『自分一人だけ生き残れるわけない』とかバカなこと思ってるんだろうけど」 図星を指され、千石は思わず顔を上げた。情けないその顔に、南は盛大にため息をついた。砂の侵食は、胸の辺りまで来ている。 「バカだバカだと思ってたらお前本当にバカだな」 「南、バカバカ言い過ぎ」 顎が崩れだした。もうすぐ南は消えてしまう。待って、と声も出せずに千石は手を伸ばした。 「まぁでもお前、やっぱり優しいよな。お前の考え、正直嬉しかった。でもそれとこれとは違うからな。まぁバカはバカなりにもう少しだけよく考えろよ。じゃあな」 髪の毛の一本すらつかめずに、彼の姿は崩れて消えた。 あの時一緒に事故にあった仲間たちもまた置いていくことはできない。このまま身体に戻ってしまうことは彼らへの裏切りだと思ってしまうのだ。だからと言って彼女の傍から離れることもできそうになかった。これは完全に自分のエゴでしかないのだが。彼女には頼れる両親がいる。祖母もいる。親友がいる。何より、彼女の背中を支えて寄り添う人間、リョーマがいる。千石がいずともなんの問題もない。むしろ、今の千石の存在は彼女にとって害でしかない。だが、それでもその隣にいて歩いていく人間は自分がよいのだ。単なる我儘だということは自覚している。だが、それでもその傲慢な感情を止めることはできなかった。 「・・・ねぇ、桜乃ちゃん、君だったら一体、どうする?」 肉体がないのに泣けるんだな、と頬を伝う涙をぬぐいながら、千石は呟いた。 戻る|NEXT→9 |